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暗黒の淵における祈り

2021 10/02
礼拝メッセージ

礼拝説教「暗黒の淵における祈り」2021年10月3日

聖書 詩篇88篇1~18節

(序)最初本日の説教題を「よみに触れたたましいの叫び」としようと思いましたが、あまりにも暗い説教題なので、他に適当な題はないかとしばし考えさせられました。それほどこの詩篇は、暗い雰囲気に覆われています。一条の光すらも見えない全くの暗黒の世界です。他の詩篇では、どんなに暗黒の黒雲に覆われていようとも、最後にはその黒雲を突き破って、まばゆい信仰と希望と賛美の光が輝き出していますが、この88篇は、最後まで黒雲に覆われています。

一、よみに触れた者の叫び 

詩篇88篇は、「嘆きの歌」の類型に入る詩篇です。他の詩篇の場合、初め嘆きの言葉があっても、終わりには信仰と賛美の言葉で締めくくられます。しかし、この詩篇には、終わりに至るまで信仰と賛美の言葉が見当たりません。全篇を通じて、嘆きと苦しみの叫びと呻きが続いています。

1節、詩人は昼も夜も主に向かって叫んでいます。2節には、詩人のたましいが、苦しみに満ち、よみに触れていることを訴えています。4節、「穴に下る者たち」とは、死んで墓に葬られた者のことです。詩人は、全く力も失せ、死人のようになっているというのです。そして、死によって彼のすべての絆が切断され、愛する者、親しい友人からも遠ざけられ、彼の存在さえも人々から忘れられているというのです。彼は、若いころから苦しみ、死に瀕して来て、絶えず恐ろしさに耐えかね、心はくずおれそうだというのです。

3節には、「私のたましいは、苦しみに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから」とあります。この「いのちが、よみに触れる」とはどの様な事なのでしょうか。聖書協会共同訳では、「この命は陰府に届きそうです」と訳しています。すなわち、逃げ場のない苦しみの中で、詩人は死者の行く「よみ」シェオールの領域に接触していると感じているのです。卑近な言い方をすれば、「片足を棺桶に突っ込んでいる」とでもいうような状況にいるのです。10~12節をご覧ください。詩人は、死に直面し、よみに触れる状況の中で、神様からの恵みも、真実も、奇跡の御業も、神の義も期待することの出来ない滅びの淵、忘却の地に追いやられていると感じているのです。

「死」ということを考えるとき、それにまともに向き合おうと、それから目をそらそうと、それはすべての人間にふりかかってくる問題です。通常私たちは、「死」がやって来るにしても、ずっと先のことと考えて生きています。

聖書において、「人間」とは、神によって地のちりから造られた者であり、また地のちりに戻って行くべき存在として考えられています。そして、「死」とは、神との関係を失い、あらゆる人間関係と希望と喜び、さらにすべてのものから切り離された状態を言っているのです。

3節で、詩人は「私のいのちは、よみに触れています」と言っていますが、「よみ」シェオールとは、「神の御手から断ち切られた所」「最も深い穴」

「暗い所」「深い淵」「滅びの淵」「忘却の地」「賛美なき地」なのです。

二、暗黒の淵における祈り 

彼が何よりも苦しみもがいているのは、これらの苦しみが神から来ているということです。7~8節で、詩人は、「あなたの憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波で、あなたは私を苦しめておられます。あなたは、私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌うものとされました。私は閉じ込められて出て行くことができません」(7~8節)と、神様の怒りによって、苦しみが大波のように繰り返し襲い、愛する者や親しい友から引き離されて、孤独の中に閉じ込められていると嘆いています。

しかも、14節では、「主よ。なぜ、あなたは私のたましいを退け、私に御顔を隠されるのですか」(14節)と呻き叫んでいます。まさに、88篇の作者は、ヨブの苦しみを経験しているのです。

先ほども申しましたが、実に、この88篇は、最後まで黒雲に覆われており、最後の言葉は、「暗闇に」を意味するマフシャフという言葉で終わっています。このような全く暗黒に閉ざされ、一条の光すらも見えない暗黒の中で、13節を見ていただくと、わずかに詩人の決断と信仰を見ることができます。すなわち、88篇の詩人は歌います。「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます。朝明けに、私の祈りは御前にあります。」(13節)この「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます」とは、完了形で書かれています。この完了形は、一つの決断を表わしていると言われます。すなわち、詩人は、暗黒の中でなお、「あなたに叫び求めます」と決断し、言い切っているのです。そして続く、「朝明けに、私の祈りは御前にあります」とは、未完了で書かれておおり、継続の意味を持っています。しかも、直訳すると「朝に、あなたを出迎えます」となります。「出迎える」という意味のヘブル語の言葉は、詩篇89篇14節「恵みとまことが御前を進みます。(直訳:恵みとまことがあなたの御顔を出迎えます。)」、詩篇59篇10節「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる」という所に用いられています。

実に、詩人を囲む状況は、今だ、暗黒ですが、詩人は、朝ごとに御前に出て、主を待ち望んでいるのです。

三、暗黒と死に勝利されたキリスト

 ヨブ記19章25~27節をご覧ください。ここに詩篇88篇13節における詩人と同じ決意と信仰の心を見ることができます。唯一の希望としてのキリストの十字架と復活が、ヨブの苦難の中での遥か彼方に輝く希望であったように、この詩篇88篇の作者にとっても、やがてのキリストの十字架と復活が、希望の光として存在しているのです。

主イエスは、この最暗黒を、十字架の上で経験されました。へブル人への手紙2章9~18節をご覧ください。主イエスは、「死の苦しみ」を、「死」そのものを味わい、経験して下さったのです。そして、ご自身の死によって、「死の力を持つ者、すなわち悪魔」を滅ぼしてしまわれたのです。

ですから、18節はこのように証言しています。「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」(18節)

  ペテロの手紙第Ⅰ もご覧ください。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました」(ペテロの手紙第Ⅰ 1章3節)とあります。主イエスは、十字架と復活によって暗黒と死に勝利されたのです。そして、私たちも、主の十字架と復活により、これらに勝利し、生ける望みに生きる者とされているのです。

(結論)いかなる暗黒の中にいるときにも、「朝明けに、私の祈りは御前にあります」と信仰を言い表しましょう。そして、主イエスの十字架と復活により、暗黒と死に勝利する者とされていることを感謝しましょう。

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