礼拝説教「喜びの叫びを知る民」2021年10月10日
聖書 詩篇89篇1~18節
(序)本日は、89篇1~18節を見て参りたいと思います。
この詩は、「嘆きの歌」と呼ばれます。多くの「嘆きの歌」が嘆きに始まり感謝と賛美で終わるのに対し、詩篇89篇では賛美で始まって嘆きで終わっています。読んでいただきました1~18節は、この詩の序論的部分であり、この詩の主題が歌われています。
一、恵みとまことに満ちた主なる神
1~18節の序論的部分に、「恵み」「真実」「選び」「契約」というこの詩全体に流れる基調が出て来ます。
「恵み」とは、ヘセッドという言葉が用いられています。これは、「契約の愛」と言われ、契約と深く結びついた言葉です。神の愛の力、堅固さ、着実さという意味を含んだ言葉です。変わることのない「確かな愛」「不動の愛」です。
「まこと」または「真実」とは、エムナーという言葉が用いられています。祈りの終わりに唱えるアーメンと語源を同じくしています。赤ん坊をしっかりと支える両親の力強い腕のように、しっかりと支えて変わらないことです。主なる神は、真実であってくださるのです。神様は、ご自身の真実で囲まれているのです(8節)。すなわち、真実以外のお方ではないのです。真実そのものであるお方です。すなわち、神は、恵みとまことに満ちた主なる神なのです。
二、天と地を創造し、統べ治めておられる力ある神
さて、「主なる神は、恵みとまことに満ちた方である」と申し上げましたが、特に1~18節には、主なる神が天と地を創造し、それらを統べ治めておられる力ある神であることが、主なる神の「恵みとまこと」に満ちておられることと深く関連付けられて歌われています。
8~10節をご覧ください。真実と力に満ちた主なる神が、「海の高まりを治め」、「逆巻く波を鎮め」ておられます。「ラハブ」とは、エジプトを意味する場合もありますが、ここでは神に逆らう勢力を意味していると言われています。それら敵対する者を、主なる神は、「力ある御腕」によって散らされるのです。11~14節には、天と地とは神が創造なさったご自身の所有であり、すべての基を据えられた方であることが歌われています。
北も南も地の全域を主なる神は創造し、タボルやヘルモンといった高い山々も主なる神の誉れを高らかに歌うと言うのです。
14節、主なる神は、「義と公正」の上に据えられた天の玉座にいまし、「恵みとまこと」が御顔の前を進むのです。
三、御顔の光の中を歩む幸い
つづいて詩篇89篇15節をご覧ください。まず、「幸いなことよ」とあります。そのような「恵みとまこと、真実と力に満ちた主なる神」の御前を行進する民の幸いが歌われています。すなわち、「喜びの叫びを知る民は幸いだ」と言っているのです。「喜びの叫び」とは、祭りのために民を招集するところのラッパの音のことだと言われます。ユダヤ教の会堂(シナゴグ)では、新年を告げるラッパが吹き鳴らされて後、直ちに、この89篇15~18節が朗誦されます。
詩篇30篇11節をご覧ください。「あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」(詩篇30篇11節)とあります。エミ・カーマイケルの『主の道を行かせてください』という本の中に、この一節が引用され、ロザーハムの訳文が紹介されています。それによると「あなたは私の荒布を引き裂いて、喜びを私にまとわせてくださいました」Thou hast torn off my sackcloth, And girded me with gladness:となっています。この「引き裂く」という言葉に、心が引き付けられました。「荒布を引き裂くのは」、私たちではありません。主が引き裂いてくださるのです。私たちは、着心地の悪い荒布を、脱ごうともがきますが、自分の力では、なかなか脱ぐことは出来ません。しかし、主は、その荒布を一瞬のうちに「引き裂いて」下さり、喜びをまとわせてくださるのです。詩篇30篇2節には、「私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました」とあり、5節には、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。主なる神は、私たちに「喜びの叫び」を与えてくださる方です。
さて、もう一度、詩篇89篇15節をご覧ください。「主よ。彼らはあなたの御顔の光の中を歩みます」とあります。「御顔の光」とは、神の臨在の輝きのことです。神の臨在のことを、ヘブル語では、パニーム「顔」という言葉で表します。向けられた顔です。臨在とは、主が私たちの方へその御顔を向けられることです。「御顔の光」とは、主なる神が、喜びをもって、私たちに顔を向けてくださるのです。
出エジプト記13章22節と40章38節をご覧ください。昼は雲の柱、夜は火の柱が、イスラエルを導いたのです。すなわち、彼らは、主の臨在の輝きの中を進んで行ったのです。
さらに、民数記23章21節をご覧ください。これは、モアブの王バラクが偽預言者バラムを雇い、イスラエルを呪わせようとする場面でのことです。バラムはイスラエルを祝福することしか出来ませんでした。その中の一節が民数記23章21節です。主なる神がイスラエルと共におられるゆえに、「王をたたえる凱歌がイスラエルの中にある」というのです。
もう一度、詩篇89篇15節をご覧ください。詩篇89篇15節の「喜びの叫びを知る民は」とあるところを新共同訳では、「勝利の叫びを知る民は」となっています。勝利と喜びの叫びにつつまれ、「御顔の光の中」すなわち、神様の輝ける臨在の中を歩むのです。
さらに、15節の「主よ。彼らはあなたの御顔の光の中を歩みます」となっている所は、文法的に強調語法が用いられ、しかも未完了で書かれています。「しっかりと御顔の光の中を歩み続けます」ということです。
(結論)私たちも「喜びの叫びを知る民」として、声をかぎりに感謝し、主を讃美しましょう。