説教題「真にわたしたちの渇きをいやす方」
聖書 ヨハネ7章37~39節
ユダヤには三大祭りの一つと言われる仮庵の祭りがあります。その終わりの日にはシロアムの池から水を汲み神殿の祭壇に注ぐという儀式があり、その儀式によって収穫のために水を与えてくださる恵みの神に感謝しました。祭りのピークとなる日でしたが、イエス様はそこで立ち上がり大きな声でおっしゃいました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
このことは何を意味しているでしょうか。
- エルサレムの主であることの宣言
エルサレムは神が住まわれる神殿がありました。人々はそのことを誇りとしましたが、しかしエルサレムの真の主はイエス・キリスト様でした。残念ながら現実にはイエス様を迎え入れるにはあまりにも堕落していました。イエス様が先にエルサレムに来られた時に宮きよめをされたのはその故です。
本来エルサレムの王として向かい入れられるお方を彼らは知らなかったのです。そのような中で、イエス様はこのお言葉をもってご自身こそが神の都を治めるお方であることを示されました。
- 聖書に預言されているメシアであることの宣言
イエス様が発せられた「だれでも渇いているなら、~」というお言葉はイザヤ書から取られたお言葉でした。そのみ言葉は捕囚にあって神様を失っていたエルサレムの人々に回復を告げる預言でした。イエス様はその預言の言葉を宣することをもって神様の救いの約束を具現化するメシアであることを示されました。
バビロン捕囚以来神殿から神が去られたことの喪失感の中にあった当時の人々の中にあって、イエス様はすべての者がご自分の民となり、その渇きがいやされようにと招いてくださったのでした。
- わたしたちもイエス様のもとに
このことはわたしたちにも同様です。わたしたちもイエス様の招きに応答して主の前に出る時、わたしたちのすべての渇きはいやされるのです。神の国をもたらしてくださったイエス様こそが、わたしたちの内なる渇きをいやし、尽きることのないいのちの御霊を注いでくださるのです。