礼拝説教「あわれみと恵みを求める祈り」202年10月31日
聖書 詩篇90篇1~17節
(序)詩篇90篇は、よく葬儀の際に読まれる詩篇です。表題に「神の人モーセの祈り」とあります。「神の人」という表現は、神のことばを神から授かって民に語る役目の人です。すなわち、モーセは、神のことばを告げ知らせる「神の人」としてだけでなく、民のために祈り執成す者としてこの詩篇を歌っているのです。参照:詩篇106篇23節
一、避け所である私たちの神 1~2節
1節に「主よ。代々にわたって、あなたは私たちの住まいです」とあります。私たちが神の住まいであるとありますが、ここでは「神様が私たちの住まいだ」とあります。これはどういうことでしょうか。それは、「神様がいつでも私たちの避け所であってくださる」ということです。2節には、「山々が生まれる前から、地と世界を、あなたが生み出す前から、とこしえからとこしえまで、あなたは神です」とあります。すなわち、天地万物を創造された全能の神が、いつでも私たちの避け所であってくださるということです。詩篇91篇1節に「いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る」と歌われていることと同じことです。
モーセはこの信仰の上に立って、この詩を歌い、そして祈るのです。
二、神の怒りの下にある人間のはかない人生 3~12節
3~6節には、神によって造られた人間のはかない人生について歌っています。創世記3章19節に「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」と言われています。神様が、私たちに
「人の子よ帰れ」と言われると、私たちは、地上の生涯を終えて土に帰るのです。千年も昨日のことのようにご覧になる永遠の神の目には、人の一生は、ひと時の間であり、朝に花が咲いても夕べにはしおれて枯れる草花のようにはかない存在だと言うのです。
7~10節には、自分たちの咎と秘め事が、すべて神の御顔の光の中に置かれ、神の激しい怒りのゆえに、消え去る存在であり、70年80年と生きようとも、そのほとんどが労苦と災いであり、瞬く間に飛び去ってしまう存在にすぎない、と言っています。詩篇90篇には、17種類もの時に関係する用語が用いられています。例を挙げるなら「ひと息」(9節)「夜回りのひと時」(4節)「朝、夕べ」(6節)「自分の日」(12節)などです。
モーセは、神の怒りを正しく恐れ、自分の存在の何たるかを知る知恵を与えてください、と祈っています。また、知恵の心を与えてくださって、「自分の日を数えることを教えてください」と祈っているのです。「自分の日を数えることを教えてください」とは、単に「自分があと何年生きることができるか教えてください」というのではありません。もっと深い意味においての知恵を求めているのです。すなわち、「神によって土のちりから造られた人間の存在そのものとは、何なのかを教えてください」という祈りなのです。
三、神のあわれみと恵みを求める祈り 13~17節
ですから、モーセは、13~17節で、神のあわれみと恵みを求める祈りをささげています。13節に、「帰ってきてください。主よいつまでなのですか。あなたのしもべたちを、あわれんでください」とあります。罪深く、弱さを担っている存在である私たち人間は、神のあわれみを待ち望む以外にない者です。ですから、モーセは、神のあわれみを求め、主なる神が再び御顔を自分たちに向けてくださるのを待ち望んでいるのです。
14節を見ると、「朝ごとに、あなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむことができるように」とあります。私たちは、その生涯の中で、様々な困難、暗黒の嵐、涙の夜を経験します。しかし、「まことに、御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30篇5節)のです。恵みを注ぎ、満たしていただいて初めて、私たちは、喜び歌い、楽しむことができるのです。16節、モーセは、神の御業と威光が、民とその子孫に現してくださるようにと祈っています。
17節において再び、主の慈愛を求め、「私たちのために、私たちの手のわざを確かなものとしてください」と繰り返して願い、求めています。
この「私たちの手のわざを確かなものとしてください」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。それは、「主の恵みのゆえに、はかない存在である私たちの日常の働きが確かにされ、主の栄光を表すことができるように」という意味です。
民の度重なる不信仰な不平不満に、モーセは、主なる神が「岩に命じよ」と言われたのに、杖で岩を打つたゆえに、約束の地カナンに入ることは許されませんでした。ピスガの山の頂から、はるか彼方に約束の地を眺めながら、120歳でその生涯を終えています。モーセはどのような思いでピスガの頂から約束の地を眺めたのでしょうか。おそらくモーセは、これまでの働きを思い返し、その働きを次の世代の若者に継承し、神にゆだねる心境で、この詩篇90篇の祈りをささげたのでしょう。
私たちもまた自ら一人でその働きが完結するのではありません。どんな働きでも、次世代へと継承しなければなりません。
詩篇90篇17節に関して、鍋谷尭爾先生は、ルターの「私は自分が明日、死ぬことがわかっていても、リンゴの木を植える」と言った言葉に結び付けておられます。
今、月刊「ベラカ」の聖書日課では、歴代誌を読んでいますが、先日、歴代誌第Ⅰ22章で、ダビデが神殿を建てようと願いつつ、それを許されなかったので、彼の後継者ソロモンンが神殿を建てるために、困難な中から、莫大な金銀やあらゆる材料を備えたことが記されていました。私たちも、自分たちの世代のことだけではなく、次の世代を担う若者のために、あらゆる備えをして行く必要があるということを切実に教えられました。その意味で、この朝、もう一度、この「私たちのために、私たちの手のわざを確かなものとしてください」という願いを、自分のこととして深く味わいたいと思います。
(結論)私たちの時代のやがて終わりを迎え、次世代の人々へとバトンを渡す日のあることを覚え、次世代の若者のために、主に向かって、「私たちのために、私たちの手のわざを確かなものとしてください」と申し上げようではありませんか。