礼拝説教「よみがえりの信仰」2023年4月9日
聖書 詩篇16篇8~11節 イースター
(序)本日は、詩篇16篇8~11節を中心に「よみがえりの信仰」という題でお話申し上げます。
一、よみに捨て置かれないとの信仰
「私の前に主を置いた」とは、決断的に、主の臨在を求めることです。主の臨在を求めることを決断し、そこに主を見通すのです。
使徒の働き2章25節をご覧ください。70人訳を引用して、「私はいつも、自分の前に主を見ていた」と記しています。ここを、永井訳では、「我は常に我が面前に主を透視せり」と訳しています。主をいつも自分の前に見る者となりましょう。どんな困難な中に置かれても、困難の向こうに主が見えているならば、あるいは、主が私たちの右にいて下さるということが分かったならば、私たちは揺るぐことのない者とされます。
ペテロは、使徒の働き2章25~28節において、詩篇16篇8~11節を引用し、ダビデが、主イエスの復活について語っているのだと言っています。
二、いのちの道を知らされる幸い
復活された主イエスが、私たちと共にいてくださり、「いのちの道」を示し、御顔を示してくださるのです。そこに喜びが満ちるのです。
ルカの福音書24章13~36節をご覧ください。エマオ途上で、主イエスが二人の弟子に現れなさった箇所です。彼らの目がさえぎられており、主イエスのよみがえりの報告を聞いても信じることが出来ないで、暗い顔のままでした。しかし、エマオの村に近い宿で、主イエスがパンを裂かれるのを見て、彼らの目が開かれ、主イエスだと分かりました。そして彼らは、エルサレムに帰り、弟子たちに報告しています。まさに彼らは、目が開かれて、復活の主イエスにお会いし、「いのちの道」を知らされたのです。
ヨハネの福音書14章6節をご覧ください。主イエスは、ご自分を「道であり、真理であり、いのちなのです」と紹介しておられます。このお方によって私たちは「いのちの道」を知らせていただき、それを歩む者として頂くことが出来るのです。
へブル人への手紙10章20節をご覧ください。この主イエスの死と復活によって、私たちは、「いのちの道」を知らせていただき、「新しい生きた道」を歩む者とされるのです。
三、満ち足りた喜びに生きる幸い
再び詩篇16篇11節をご覧ください。文語訳には、「なんじの前には充足(みちたれ)るよろこびあり、なんじの右にはもろもろの快楽(たのしみ)とこしえにあり。」と訳してあります。復活の主イエスにお出会いし、「いのちの道」を歩む者とされるとき、そこに満ち足りた喜びがあるのです。私たちも、いのちの道を示してくださる復活の主の聖顔を仰ぎ、心満ち足り喜ぶ者としていただきましょう。何が喜び、何が楽しみと言って、「いのちの道」を知らせていただいて、その道を歩むことの出来るほど嬉しい事はありません。
詩篇36編8~9節もご覧ください。ここにも溢れるばかりの喜びが歌われています。「彼らは、あなたの家の豊かさに満たされ、あなたは楽しみの流れで潤してくださいます。いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです」とあります。それは、神様によるところの最高のおもてなしに心ゆくまで与るところの恵みです。神様のしたたる豊かな恵みに潤される喜びが歌われているのです。
最後に、ピリピの人々に宛てたパウロの言葉を引用します。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ人への手紙4章4節)
(結論)この朝も、活ける主は、私たちと共にいて、私たちを「いのちの道」に導き、満ち足りる喜びをくださるお方です。「いのちの道」を歩み、魂のそこから、主を喜び感謝する者となりましょう。