礼拝説教「捨てられた石が隅のかしら石に」2023年4月2
聖書 詩篇117篇1~2節、詩篇118篇1~29節
(序)過越の食事と最後の晩餐の時との関連で詩篇113篇~116篇を見て来ました。主イエスと弟子たちは、食事を終えた後、ケデロンの谷を越え、オリーブ山の麓にあるゲツセマネの園へ向かう道中この詩篇117篇と詩篇118篇を歌ったと思われます。本日は、そのような背景を考えつつ、詩篇117篇と詩篇118篇を味わいたいと思います。
一、すべての国民への賛美の招き(117篇1~2節)
詩篇117篇は、わずか2節の短い詩ですが、その内容は、すべての国、すべての国民に向けての賛美への招きであり、広大な広がりをもった詩です。その中心は、主の大いなる恵みと変わることのない主のまことのゆえに、「主をほめたたえよ」と賛美への招きが歌われています。主は、ご自身によって今なし遂げられようとする救いが、全世界に宣べ伝えられることを覚えて歌われたのです。
二、苦しみの中での主への信頼(118篇1~14節)
118篇1~4節には、詩篇117篇2節の「主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで」を受けて、「主の恵みはとこしえまで」と四回繰り返されています。そして、5~14節に、苦しみのうちから、主によって救われ、助けられた事が歌われています。国々が取り囲み、激しく攻め苦しめる中で、詩人は、「主は私の味方、私は恐れない。人は私に何ができよう。…主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い」と言い、「主の御名によって、私は彼らを断ち切る」と信仰に立って決意を述べ、それを四回、繰り返しています。
14節の「主は私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた」とは、出エジプト記15章2節を思い起こさせる勝利の確信の言葉です。
三、勝利の凱旋(118篇15~29節)
118篇15~18節において、詩人は、主の大いなる右の手の働きを覚え、勝利を確信して歌っています。17~18節は、「私は死ぬことなく,かえって生き」と復活を確信して歌っています。
19~20節は、詩人の前に、「義の門が開かれ、そこから入る」と歌い、正しい者たちのためにもこの義の門が開かれたことを歌っています。まさに勝利の凱旋の宣言です。
22節の「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」というみことばは、大切なみことばです。マタイの福音書21章42節では、神の国が、祭司長やパリサイ人から取り去られ、神の国の実を結ぶ者に与えられることについて引用しておられ、使徒の働き4章11節では、ペテロが主イエスの十字架と復活に言及し、主イエスの御名のほかには救いが与えられていないことを語る中で用いています。さらに第1ペテロ2章7節では、主イエスが神に選ばれた尊い生ける石であり、私たちが主を信じるなら、生ける石として霊の石に築き上げられることについて語る中で引用しています。十字架に付けられ、捨てられたかのようになられた主イエスは、救いの要、救いの土台となられたのです。まさにこれは、「主がなされた不思議」です。それゆえに24節にあるように、「これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう」と言うのです。
25節の「どうか栄えさせてください」ですが、ツァレ―ハ―という言葉が用いられており、「進める。成功させる。成し遂げる」というような意味を含んだ言葉が用いられています。同じ言葉が、イザヤ書53章10節に、「主のみこころは彼によって成し遂げられる」とあるところで用いられています。すなわち、詩篇118篇25節の「どうか栄えさせてください」とは、「どうかなし遂げさせてください」ということです。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」ということを「成し遂げさせてください」という祈りです。
26~28節は、人々に祝福をもたらす勝利と喜びに満ちた凱旋の行列が歌われています。そして、29節で、1節と同じ賛美の言葉でこの詩篇を閉じています。
主イエスは、御苦しみの向こうに、復活、昇天、御位への着座を見ておられたのです。ですから、十字架の上で「完了した」(ヨハネの福音書19章28節)と言われ、「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカの福音書23章46節)と言われたのです。
(結論)私たちも、「捨てられた石が要の石となった」というこの十字架と復活の不思議な御業に与る者として、主の凱旋の行列に加えて頂きましょう。