主に望みを置く人の幸い

礼拝説教「主に望みを置く人の幸い」2024年2月25日

聖書 詩篇146篇1~10節

(序)本篇以降、はじめと終わりに、「ハレルヤ」とあるゆえに、「ハレルヤ詩篇」と呼ばれています。「ハレルヤ」とは、「主を賛美せよ」との意味です。

  • 主への賛美(1~2節)

1節、二つのハレルヤの間に、なぜ賛美すべきかの理由が示されています。バックストン先生は、『詩篇の霊的思想』という本の中で「詩篇を始めから終わりまで注意深く研究すると、クリスチャン生涯におけるあらゆる経験が記されているのがわかる。…詩篇を読んでいくうちに次第に神をほめる心が起り、ついにはただハレルヤ、ハレルヤの心だけとなるに至る。人がハレルヤと心から言い得るに至ったなら、その人は全き人である。そもそも神がわれらに対して持たれる終局のご目的は何かと言えば、このハレルヤをとなえることを教えることにある、と言っても差し支えない。神はこの一つの目的のためにすべてのことをなされるのである。」(バックストン『詩篇の霊的思想』)と言っておられます。全くその通りだと思います。私たちが、いついかなる時にも、ハレルヤとうことの出来る日々であり、生涯であるならば何よりも幸いです。詩人は、「わがたましいよ。主をほめたたえよ」と自分のたましいに言い聞かせています。

2節、詩人は、「私は生きてるかぎり、主をほめたたえる。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う」と自分に言い聞かせ、誓っています。

  • 主に望みを置くものの幸い(3~5節)

3~4節、「あなたがたは君主を頼みとしてはならない、…救いのない人間の子らを」と限りある存在である人間に頼るべきではないことを警告しています。「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に何の値打ちがあるか」(イザヤ書2章22節)。詩人は、真の神にこそ信頼し、望みを置くべきことを歌っているのです。

4節には、「霊が出て行くと、人は自分の土に帰り、…彼の計画は滅びる」とあります。私たちは土のちりで造られ、再び土に帰る限りある存在です。

どんなに緻密で完璧な計画を立てても、一息でこの世を後にしなければなりません。それを思うと、5節にあるように、「ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人」は幸いです。私たちは主を避け所また助けとさせて頂き、主に望みを置く者とさせて頂きましょう。

  • 主の御業(6~9節)

6節から9節に、主なる神様の御業が歌われています。

1.まず6節には、「天と地と海」、その中のすべてのものを造られ、これらを、真実をもって守っておられる主の御業が歌われています。神の創造のみわざとご真実が歌われているのです。

2.7節には、公正公平であわれみ深く捕らわれている人を解放して自由を与えてくださる神様が歌われています。

3.8節には、光りを与えて、目の見えない人の目を開き、力なく屈んでいるものに力を与え、立たせ、正しい者を愛してくださる神様である事が歌われています。

4.9節には、寄留者、みなしご、やもめなど立場の弱い頼るべきところのない人々を守り支えられる方、悪しき者には裁きを行われる義なる神様である事が歌われています。

四、主への賛美(10節)

そして、10節に、主が、とこしえまでも王の王として統べ治められることが歌われています。すなわち、主の大いなる力ある御業とあわれみと恵みのゆえに、主を「ハレルヤ」と賛美するようにとの結論です。

 「主は、とこしえに統べ治められる。シオンよ。あなたの神は代々に統べ治められる」と二重に繰り返して主なる神こそ王の王であることを強調し、神の民に呼びかけ、「ハレルヤ」と主を賛美しています。

(結論)私たちも愛と力といつくしみに満ちておられる主に向かって「ハレルヤ」と心から主を賛美しましょう。

礼拝説教「主に望みを置く人の幸い」2024年2月25日

聖書 詩篇146篇1~10節

(序)本篇以降、はじめと終わりに、「ハレルヤ」とあるゆえに、「ハレル詩篇」と呼ばれる。「ハレルヤ」とは、「主を賛美せよ」との意味。

  • 主への賛美(1~2節)

1節、「ハレルヤ」とは、「主を賛美せよ」との意味。二つのハレルヤの間に、なぜ賛美すべきかの理由が示されています。バックストン先生は、『詩篇の霊的思想』という本の中で「詩篇を始めから終わりまで注意深く研究すると、クリスチャン生涯におけるあらゆる経験が記されているのがわかる。…詩篇を読んでいくうちに次第に神をほめる心が起り、ついにはただハレルヤ、ハレルヤの心だけとなるに至る。人がハレルヤと心から言い得るに至ったなら、その人は全き人である。そもそも神がわれらに対して持たれる終局のご目的は何かと言えば、このハレルヤをとなえることを教えることにある、と言っても差し支えない。神はこの一つの目的のためにすべてのことをなされるのである。」(バックストン『詩篇の霊的思想』)と言っておられます。全くその通りだと思います。私たちが、いついかなる時にも、ハレルヤとうことの出来る日々であり、生涯であるならば何よりも幸いです。詩人は、「わがたましいよ。主をほめたたえよ」と自分のたましいに言い聞かせています。

2節、詩人は、「私は生きてるかぎり、主をほめたたえる。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う」と自分に言い聞かせ、誓っています。

  • 主に望みを置くものの幸い(3~5節)

3~4節、「あなたがたは君主を頼みとしてはならない、…救いのない人間の子らを」と限りある存在である人間に頼るべきではないことを警告しています。「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に何の値打ちがあるか」(イザヤ書2章22節)。詩人は、真の神にこそ信頼し、望みを置くべきことを歌っているのです。

4節には、「霊が出て行くと、人は自分の土に帰り、…彼の計画は滅びる」とあります。私たちは土のちりで造られ、再び土に帰る限りある存在です。

どんなに緻密で完璧な計画を立てても、一息でこの世を後にしなければなりません。それを思うと、5節にあるように、「ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人」は幸いです。私たちは主を避け所また助けとさせて頂き、主に望みを置く者とさせて頂きましょう。

  • 主の御業(6~9節)

6節から9節に、主なる神様の御業が歌われています。

1.まず6節には、「天と地と海」、その中のすべてのものを造られ、これらを、真実をもって守っておられる主の御業が歌われています。神の創造のみわざとご真実が歌われているのです。

2.7節には、公正公平であわれみ深く捕らわれている人を解放して自由を与えてくださる神様が歌われています。

3.8節には、光りを与えて、目の見えない人の目を開き、力なく屈んでいるものに力を与え、立たせ、正しい者を愛してくださる神様である事が歌われています。

4.9節には、寄留者、みなしご、やもめなど立場の弱い頼るべきところのない人々を守り支えられる方、悪しき者には裁きを行われる義なる神様である事が歌われています。

四、主への賛美(10節)

そして、10節に、主が、とこしえまでも王の王として統べ治められることが歌われています。すなわち、主の大いなる力ある御業とあわれみと恵みのゆえに、主を「ハレルヤ」と賛美するようにとの結論です。

 「主は、とこしえに統べ治められる。シオンよ。あなたの神は代々に統べ治められる」と二重に繰り返して主なる神こそ王の王であることを強調し、神の民に呼びかけ、「ハレルヤ」と主を賛美しています。

(結論)私たちも愛と力といつくしみに満ちておられる主に向かって「ハレルヤ」と心から主を賛美しましょう。