主を恐れ、みことを喜ぶ人の幸い

礼拝説教「主を恐れ、みことばを喜ぶ人の幸い」2023年3月12日

聖書 詩篇112篇1~10節

(序)本篇は、111篇の姉妹篇であり、同じくハレルヤで始まっており、「ハレルヤ詩篇」と呼ばれています。この詩篇も、形式的に各行の初めがヘブル語のアルファベットの文字で始められています。ですから、「アクロスチック(アルファベット歌、いろは歌)詩篇」と呼ばれています。

詩篇111篇では、「主の御業の偉大さ」が歌われていましたが、本篇では、「主を恐れ、そのみことばを喜ぶ人の幸い」に焦点が当てられています。

一、敬虔な人の姿(1~5)

1節にまず「幸いなことよ」とあり、「主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は」とあります。これがこの詩篇の主題です。この「主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人」ということを「敬虔な人」と言い換え、まず1~5節において「敬虔な人の姿」を見たいと思います。

1. 主を恐れ、そのみことばを喜ぶ

詩篇111篇10節には、「知恵の初め、それは主を恐れること」とありますが、それを受けて、112篇は、「幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は」と歌い出しています。今、祈祷会では、箴言を学んでおり、教団の発行している月刊誌「ベラカ」の聖書日課でも箴言を読んでいますが、箴言の中心的主題も「主を恐れる」ことです。箴言1章7節には、「主を恐れることは知識の初め」とあります。すなわち、箴言では、「主を恐れることがあらゆる知恵と知識の土台だ」と言っているのです。

 「主を恐れる」とは、「主を信じ、主に全き心で従う」ということです。ですから、「主を恐れる」人は、主のみことばを大いに喜ぶ人です。

私たちも日々に聖書を読み、みことばを喜び、主とそのみことばに励まされて生きる者でありたいと思います。

2.真っ直ぐで正しい人

2節と4節に「直ぐな人」とあり、6節に「正しい人」とあります。

この言葉を見る時、真っ先に思い出したのは、詩篇92篇12~14節です。そこには、「正しい者は、なつめ椰子の木のように萌え出で」とあります。くねくねと曲がった「なつめ椰子の木」は想像できません。ただ真っすぐに、天に伸びた「なつめ椰子の木」は、日本人的美的感覚からすると、面白みがないかもしれません。しかし、そこには、堂々とした威厳さえ感じることが出来ます。

テモテへの手紙第Ⅱ4章7~8節に「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」とあります。ここに真っすぐに伸びた「なつめ椰子の木」のようなパウロの真実な信仰の姿勢を見ることができます。

私たちも、スーと真っすぐに伸びた「なつめ椰子の木」のように、世と妥協しないで、ひたすら主を信じ、主に仕える真っすぐで真実な信仰の者となりたいと思います。

「なつめ椰子の木」は、十分な実をつけるには、40年を要するそうです。しかし、実がなるとひと房に1000個の実をつけ、1本に6~7房実がなるというのです。しかも、」150年間も実を実らせ続けるというのです。「桃栗3年、柿8年、柚子は9年でなりかかる」と言われますが、それをはるかにしのぐ「なつめ椰子の木」のスケールです。家族親族、同じ職場、近隣の人々への福音のみことばの証しを、祈りつつ行い、豊かな結実を見させていただく、クリスチャンとならせていただきましょう。 

3、情け深い人

5節に「情け深く、人に貸し、自分に関わることを公正に扱う人」とあります。9節にも、「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた」とあります。

第Ⅱコリント9章9節をご覧ください。パウロは、惜しみなくささげる人々への祝福を語った中で、詩篇112篇9節を引用しています。

詩篇112篇4節に、「主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる」とありますが、私たちは、主なる神様の恵みとあわれみを頂いた者です。ですから、助けを必要としている人々に手を差し伸べる情け深い者でありたいと思います。

二、敬虔な人の受ける祝福(6~10)

6~10節を中心に、「敬虔な人の受ける祝福」について見たいと思います。

1、主に覚えられている

6節に「その人はとこしえまでも揺るがされない。正しい人はとこしえに覚えられる」とあります。「覚えられる」とあるところは、「記念される」という意味のヘブル語(ゼーケル)の言葉が用いられています。また、同じヘブル語の言葉が詩篇111篇4節では「心に刻まれた」と訳されています。すなわち、この「覚えられる」とは、「心に刻まれ、記念される」ということです。マルコの福音書14章9節をご覧ください。非常に高価なナルドの香油を主に注いでささげたマリアの行為を、主イエスは、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えれらるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」と言われました。そのように、人に見られなくとも、敬虔な人、主に忠実に奉仕した人を、主は記念として覚えてくださるのです。

2、心は堅固である

7節をご覧ください。「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、心は揺るがない」あります。どのような悪い知らせよ困難が押し寄せて来ても、主が支えてくださるので、主に信頼して揺り動かされることがないというのです。「その心は堅固で、恐れることなく、…平然と見ている」というのです。

3、栄光のうちに力が与えられる

9節をご覧ください。「彼の角は栄光のうちに高く上げられる」とあります。

「角」とは旧約聖書では、「力」を象徴しています。第Ⅱコリント12章9節をご覧ください。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ敬虔な人は、主が「わたしの恵み。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言ってくださるゆえに、「私が弱いときにこそ、私は強いからです」ということができるのです。

(結論)主を恐れ、そのみことばを喜び、真っ直ぐで正しく、情け深い、敬虔な人として頂きましょう。そして、主に覚えられる忠実なしもべ、いかなる時にも、動かされることなない心の堅固な者、力と栄光を与えられた者として頂きましょう。