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御名のために、事を行ってください

2023 2/18
礼拝メッセージ

礼拝説教「御名のために、事を行ってください」2023年2月19日

聖書 詩篇109篇1~31節

(序)109篇は、その内容から「復讐の詩篇」と呼ばれたり、「呪いの詩篇」と呼ばれたりします。

一、沈黙の中で (1~5)

1節に、「私の賛美である神よ。沈黙しないでください」とあります。

まず、詩人は、「私の賛美である神よ」と呼びかけています。この表現は、出エジプト記15章2節に「主は私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた」とあるところから来ていると思われます。これは、主なる神が、紅海の水を二つに裂いて、イスラエルの民を救い出された後に歌われた賛美の一節です。そして、同じような表現が「十字架の詩篇」と呼ばれる詩篇22篇3節に「あなたは聖なる方、御座に着いておられる方、イスラエルの賛美です」とあります。すなわちそこには、力強い御手をもって救いの御業を行ってくださる主なる神への呼びかけだということです。

しかし、今、主は、沈黙しておられ、ダビデは「沈黙しないでください」と叫び、今ある窮状を訴えるのです。

沈黙と言葉について様々な方面から考察したマックス・ピッカート『沈黙の世界』という本の中に、「沈黙は言葉なくしても存在し得る。しかし、沈黙なくして言葉は存在しえない。もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうだろう」とあります。沈黙には、様々な沈黙があります。期待し待ち望む沈黙、感動を味わう沈黙、生き生きとした沈黙、深みのある沈黙、時をうかがっている沈黙などです。

ダビデは詩篇109篇1節で「沈黙しないでください」と訴えていますが、詩篇35篇22節でも、「主よ。あなたはご覧いなりました。黙っていないでください。わが主よ、私から遠く離れないでください」と主に訴えています。

主なる神は、なぜ沈黙しておられるのでしょうか。主は、ご自分が御業をなさる時をうかがっておられるのです。

二、悪しき者への報いと呪い

6~20節、28~29節に復讐に満ちた言葉が続いており、私たちクリスチャンは驚き、身を引いてしまいます。これをどの様に理解するべきか悩みます。これは、旧約時代という制約の中での歌であることを前提に理解しなければなりません。そして、詩人は、報復と呪いの言葉を祈ることによって、自ら報復しようというのではなく、報復は神にゆだねているということです。現代においても、犯された罪に対しては厳正な審判が下されるべきでしょう。そうでなければ社会正義ということが成立しなくなります。そして、被害者及びその家族の痛みや苦しみを考慮するとこの

6~20節、28~29節に言い表された復讐の言葉が理解できます。

さて、4節に「彼らは告発で応じます」とあり、6節と20節に「告発する者」とあります。この「告発する者」というのは、サタンです。サタンは、裁判で検事が被告を告発するように、訴え告発する者です。彼らは、邪悪な口と欺きの口を向け、憎しみの言葉で囲み、愛に代えて告発で応じ、善に代えて悪を返してくるというのです。ですから、20節、「告発する者たちへの主からの報い」を祈るのです。

ローマ人への手紙12章19~21節をご覧ください。ここには、自分で復讐するのではなく、神様にゆだねることが勧められています。

 私たちは、どんな取り扱いを受けても、自らで復讐するのではなく、すべてを神様にゆだねる者となりましょう。

三、恵みの御手に目を留めて

詩篇の作者は、ただ復讐の言葉を述べているだけではありません。

21節をご覧ください。詩人は、神御自身と神の恵みの御業に目を向けています。22~25節では、自らの弱さと痛みを訴え、26~27節において、詩人は、「主よ、私を助けてください。あなたの恵みによって、私をお救いください」と祈り、主の恵みと力強い御手に目を留めています。

22節を見ると「私は苦しみ、そして貧しく、私は心のうちで傷ついています」とあります。この「苦しみ、そして貧しく」とは、詩篇86篇1節にも「主よ。耳を傾けて、私に答えてください。私は苦しみ、貧しいのです」とあります。この「苦しみ」アニーとは、「悩む者、砕かれた者」のことです。また、「貧しい」エビヨーンとは、「極貧の者」であることを意味しています。詩人は、自らが「砕かれた者」であり、主以外には「全く頼るところのない貧しい者」であると言い、主の助けを求めているのです。

自らが、「砕かれた者」であり、主以外には「全く頼るところのない貧しい者」であると認め、告白し、主の恵みの御手に目を留め、主の助けを祈り求めるところに、勝利が与えられ、祝福と喜びと感謝の賛美が溢れるのです。ですから、28~31節において、主の祝福と救いを確信して、主に感謝し、賛美しているのです。

さらに加えて詩篇109篇22節を見てください。詩人は「私の心は私のうちで傷ついています」(22節)と告白しています。「傷ついています」のところに注がついています。欄外を見ると、「刺し貫かれています」と注が付けられています。このハラルという言葉は、イザヤ書53章5節に「苦難のしもべ」の預言として「彼は私たちの背きのために刺され」とあるところでも用いられています。

私たちは、時に悩みと悲しみのために、心が刺し貫かれたように感じる時があります。しかし、覚えてください。主は、私たちのために、刺し貫かれてくださったのです。

(結論)私たちも、いかなる苦しみの中に置かれても、主とその恵みの御手に目を留め、主の祝福と救いを確信して、主に感謝し、主を賛美する者となりましょう。

礼拝メッセージ
  • 主の御顔と御力を求めて
  • 王たる祭司キリスト

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