礼拝説教「王たる祭司キリスト」2023年2月26日
聖書 詩篇110篇1~7節
(序)本日は、詩篇110篇からお話しします。
一、メシア預言の重要な詩篇
詩篇110篇は、メシア預言の重要な詩篇の一つです。まず、マタイの福音書22章41~46節をご覧ください。これは受難週の一日、主イエスが神殿で人々に語った時のことです。パリサイ人たちが主イエスを試そうと様々な質問をしましたが、この箇所は、逆に、主イエスの方から彼らにお尋ねになられた所です。すなわち、主イエスは、詩篇110篇1節を引用して、ダビデが、聖霊に導かれて、キリストを主と呼んでいることに言及し、キリストこそメシアであることを明確にしておられます。
また使徒の働き2章34~35節をご覧ください。ペテロが、ペンテコステの日に、人々に語った説教の中で、この詩篇110篇1節を引用して主イエスがメシアであることを明らかに示しています。
二、王であるキリスト
へブル人への手紙1章13節をご覧ください。ここに詩篇110篇1節が引用され、「王であるキリスト」が紹介されています。すなわち、ここには、御使いとの比較の中で、「神の右の座に着かれた永遠に変わることのないお方」としての主イエス様が、紹介されているのです。「神の右の座に着かれた」ということは、主イエス様の「優れて高い地位とか、その権威を言い現す表現」です。しかも、へブル人への手紙1章10~12節において、主は、「永遠に変わることのない方」であるというのです。すなわち、主は、すべての権威を持ち、しかも「永遠に変わることのない方」であるという事は、その救いの御業は、変わることなく永遠なのです。その変わることのない救いは、今私たちの目の前に、明らかにされて、「これを受け取れ」と差し出されています。その変わることのない救いを、信仰をもって、受け取ることを主は待っておられ、そのことを喜んで下さるのです。
三、祭司であるキリスト
へブル人への手紙5章6節と7章17節、21節をご覧ください。ここに、詩篇110篇4節が引用され、「メルキゼデクに等しい祭司であるキリスト」が紹介されています。
「サレムの王メルキゼデク」としてへブル人への手紙7章1節に紹介されています。「サレム」とは、「平和」の意であり、「メルキゼデク」とは、「義の王」の意です。創世記14章18節を見ると、アブラム(後のアブラハム)が、甥のロトをはじめ捕虜になった人々を救い出して帰って来た時、サレムの王メルキゼデクが出迎え、パンとぶどう酒を持って来て、アブラムを祝福しています。メルキゼデクは、「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ」といと高き神(エル・エルヨーン)の名において、アブラムを祝福し、アブラムは、十分の一を、メルキゼデクに贈っています。
へブル人への手紙7章2節に、メルキゼデクは、「義の王であり、平和の王です」とあります。そして、3節には、「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の始めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです」と紹介されています。
4~24節を見ると、レビ族アロンの系図に属する祭司に勝る偉大な祭司としてメルキゼデクが紹介されています。主イエスは、メルキゼデクに等しいと呼ばれる祭司として、「朽ちることのない、いのちの力によって」(16節)祭司となったことが強調されています。実に、主イエスは、不滅であり、いのちに満ち満ちた大いなる力によって、メルキゼデクに等しい祭司としてなられたと告げているのです。
へブル人への手紙7章は、17節と21節で、共に詩篇110篇4節から引用して、父なる神様が、変えられることのないご自身の誓いによって、主イエス様を、「メルキゼデクの位に等しい祭司」「とこしえの祭司」として立てられたことを告げているのです。そこにこそ、確かな救いがあるのです。続いてへブル人への手紙7章24~25節において、主イエスは、永遠に存在される方であり、変わることのない永遠の祭司として、私たちのために執り成していて下さるゆえに、キリストによって神に近づく者を、いつも、完全に救ってくださることを明確に記しています。
ここにこそ、私たちの完全な救いがあるのです。
(結論)すなわち、詩篇110篇には、「王であり、祭司であるキリスト」が証しされているのです。主イエスは、「聖なる威光をまとい」、朝露のように力と恵みに満ちた「王たる祭司」としてキリストは勝利をお取りになり、私たちの救いを完成して下さるのです。