全き道に心を留める

礼拝説教「全き道に心を留める」2022年10月9日

聖書 詩篇101篇1~8節

(序)101篇の表題に「ダビデによる。賛歌」とありますが、ダビデ個人の作あるいは、ダビデを記念しての詩であろうと言われています。

  • 全き道に心を留める

 この詩篇には、「全き道」、「全き心」という言葉が出て来ます。「全き」とは、ターミームという言葉が使われており、「完全である」とか「完成する」「完了する」を意味するターマムというヘブル語の動詞から派生している言葉です。その言葉には多くの意味があり、様々な文脈において用いられています。「全き道」とは、神によって示された、神の喜ばれる生き方を意味しています。「全き心」とは、神のみこころと私たちの心が一つになっているということです。すなわち、「全き道に心を留め」、「全き心で行き来します」とは、神のみこころにかなった、神の喜ばれる生き方をするということです。2節に「私は家の中を、全き心で行き来します」ありますが、

日常生活の中で、いつも神のみこころに沿った歩みを続けるということです。「いつあなたは、私のところに来てくださいますか」とは、主の臨在を求めて祈っている言葉です。エレミヤ33章3節に「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう」とあります。私たちが、主の臨在を求めて祈るとき、主はその祈りに答えて、今だ隠されている大いなることを知らせてくださるのです。そして、私たちに主の救い、恵みとさばきを見せてくださるのです。

  • 目の前に卑しいものを置かない

 ですから、詩人は、「目の前に卑しいものを置きません。…曲がった業を憎み、…それがまといつくことはありません」と言うのです。詩人は、「全き道」と「全き心」を求め、「曲がった心」「悪」「そしり」を遠ざけ、知ることさえ退けます。「高ぶる目とおごる心」に対してさえも耐えられない、我慢できないと言うのです。

8節に、「朝ごとに、私は国の中の悪しき者を、ことごとく滅ぼし、主の都から、不法を行う者を、ことごとく断ち切ります」とありますが、この「悪しき者」「不法を行う者」を他の誰かとか、他のどこかの国と考えるべきではないと思います。むしろ自分自身の中にある「悪しき者」「不法を行う者」を滅ぼし、断ち切りたいと思います。

このところを読みながら、この年すでに学びましたコロサイ書を思い出しました。すなわちコロサイ人への手紙1章9~12節のパウロの祈りと3章12~14節のパウロの勧めのことばです。あらゆる霊的な知識、霊的知恵と理解力、神のみ心についての知識に満たされ、主に喜ばれ、実を結び、神を知ることにおいて成長する者、さらに、慈愛と、親切と謙遜、柔和、寛容、愛の帯を身に着ける者として頂きましょう。

三、全き者としてくださるのはただ主の恵み

6節に「私の目は、この国の忠実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者、その人は私に仕えます。」とあります。

「忠実な人、全き道を歩む人たち」は、全き心に目を留めて全き道を歩む者の周りに集い、神と信仰ある人に仕えるというのです。

 私たちは、互いに励まし合いながら、忠実な全き道を歩む者の一人とさせていただきましょう。「全き心」で、「全き道」を歩むことが出来るのは、まず主が私たちを恵み、導いてくださったからです。

その視点から同じダビデの作である詩篇18篇を最後に見たいと思います。詩篇18篇においても、ダビデは、主の道を守り(21節)、主の前に全き者として歩もうとしています。まず見ていただきたいのは、25節、30節です。主が全きお方である事が歌われています。そして、32節と35~36節です。主なる神御自身がダビデを強め、力を帯びさせ、全き者としてくださることを歌っています。そのように、主ご自身が、私たちの足を強め、手を鍛え、私たちの歩みを大きくしてくださるのです。

(結論)主の恵みによって、全き心で、全き道を歩む者となりましょう。また忠実な全き心で歩んでいる人々に目を注ぎ、共に全き道を歩んでまいりましょう。