礼拝説教「喜びをもって主に仕えよ」2022年10月2日
聖書 詩篇100篇1~5節
(序)本日は、100篇をともに見て参りたいと思います。95篇から「賛美と喜びをもっての礼拝への招き」が続いていますが、100篇も同様に、
「賛美と喜びをもっての礼拝への招き」が歌われています。
一、喜びをもって主に仕える 1~2節
100篇1~2節に「喜び」という言葉が、3回も用いられており、短い詩篇の中に、「礼拝する喜び」が満ちあふれています。ですから、「100篇のキーワードは、喜びである」と言われています。「仕える」アーバッドとは、その言葉の意味の中に、「礼拝する」という意味も含まれています。ですから、「主に仕える」ことは、「主を礼拝する」ことであり、主に仕える最高の行為は、「主を礼拝する」ことです。主の御前に出て礼拝することは、神の民にとって、主に仕える最高の行為であり、特権なのです。喜びをもって、喜びの中で、主を礼拝することは、主が喜んで下さることです。2節に「喜びをもって、主に仕えよ」とありますが、詩篇2篇11節では、「恐れつつ、主に仕えよ」とあります。「恐れと喜びは互いに排他的ではない」とデリッチという学者は言っています。礼拝における「恐れ」は、神の求めておられる威厳、威光、尊厳、栄誉と関係しており、「喜び」は、神のめぐみといつくしみと関係しています。ですから、「恐れつつ、喜びつつ、主に仕え、礼拝せよ」というのです。
二、主こそ神であることを知る 3節
3節は、まず「知れ」と命じられています。この「知る」ヤダ―というヘブル語は、個人的、体験的、具体的に「知る」ことを意味しています。何を「知れ」というのでしょうか。すなわち、主こそ真の神であることを個人的、体験的、具体的に「知りなさい」ということです。そのように主を個人的、体験的、具体的に「知る」ということは、同時に、主は、私たちを知って下さっているということです。
「主が私たちを造られた」とありますが、主は、私たちを創造された時、喜び楽しみつつ組み立ててくださったのです。今、「箴言」を祈祷会で学んでいますが、8章30~31節に、「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ」とあります。主は、私たちの創造を喜び、楽しんでくださったのです。それほどに私たちを知っていてくださるのです。ですから創世記1章4,10,12,18,21,25節に「神はそれを良しと見られた」とあり、31節には、「それは非常に良かった」とあります。
詩篇100篇3節に「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊」とありますが、主は、私たちを、ご自身のもの、ご自身の民、ご自身の羊として、個人的、体験的、具体的に知って下さっているのです。
三、感謝し、賛美しつつ、主を礼拝する 4~5節
4節に「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ」とあります。神殿には、内庭と外庭があり、男子のユダヤ人のみが入ることを許された庭と女性や異邦人にも入ることを許された庭がありました。そしてそれぞれ門がありました。詩篇100篇の賛美は、祭司や礼拝者たちが隊列を組み、喜び歌いながら門をくぐり、神殿の大庭に入って、主なる神を礼拝したのです。それは、主を礼拝する時の入場行進です。
4節には、二回も「感謝」という言葉が用いられています。表題にも「感謝の賛歌」とあります。まさにこの詩は、感謝と喜びに満ち溢れた礼拝の歌です。「感謝」というヘブル語は、トダーと言いますが、この詩はトダーの賛歌と呼ばれています。私たちも、毎回の礼拝を、感謝と喜びをもってささげる礼拝でありたいと思います。
先週も、詩篇99篇の「主は聖なる方」ということで、イザヤ書6章をご覧いただきましたが、本日もイザヤ書6章をご覧いただきたいと思います。セラフィムたちが、飛びかけりながら互いに「聖なる。聖なる。聖なる。万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と呼び交わしていました。このセラフィムという言葉は、ここのみに用いられている言葉です。ですから、この言葉をイザヤが用いた背後に、ここイザヤ書6章におけるイザヤの経験が強烈にあったと思います。
デリッチという聖書学者は、詩篇100篇に出て来る「感謝」という言葉を、「セラフイム・トダー」、すなわち「セラフィム的感謝である」と言って、イザヤ書との関連を述べています。あの贖罪所を翼で覆いながら、見守って、神の聖と神の贖いの御業の証言者としてセラフィムは、存在し、
万軍の主なる神を礼拝しています。そのような「セラフィム的感謝である」とデリッチは言っているのです。実に、主なる神を、感謝と喜びをもって礼拝するということは、私たちにとって最高の恵みであり、特権なのです。
イザヤ書56章6~7節もご覧ください。主なる神が、異邦人も礼拝に招いていてくださっていることが語られています。なんと「わたしの聖なる山に来させて、私の祈りの家で彼らを楽しませる」というのです。
詩篇100篇に帰って5節をご覧ください。「主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る」とあります。この5節の冒頭に、訳されてはいませんが、ヘブル語の聖書では「なぜなら」という言葉があります。すなわち、感謝と喜びをもって礼拝するその理由が最後に歌われているのです。
5節には、主なる神の「いつくしみ」と「恵み」と「真実」が並べられています。「いつくしみ」と訳された言葉は、トーブという言葉であり、通常「善」と訳されます。詩篇119篇68節には、「あなたは、いつくしみ深く、良くしてくださいます」とあります。口語訳では、「あなたは善にして、善を行われます」とありました。主なる神様は、善にして善を行われるお方であり、ご自身に寄り頼む者を悪いようにはなさらないお方です。
次の「恵み」ということですが、ヘセドという神の契約の愛、神の変わることのない愛を表わす言葉が用いられています。
さらに、「真実」とは、エムナーという言葉であり、アーメンと同じ語源の言葉です。主なる神様は、「いつくしみ深く」と「恵み」と「真実」のお方であるゆえに、詩人は、主に感謝し、喜びの声をあげて、主を礼拝しているのです。主なる神の「いつくしみ」と「恵み」と「真実」は、すべての人に向けられています。
(結論)私たちも、「主に向かって喜びの声をあげよ。」との招きに応答して、感謝と喜びをもって主を礼拝いたしましょう。