主は聖なる方

礼拝説教「主は聖なる方」2022年9月25日

聖書 詩篇99篇1~9節

(序)96篇や97篇と同じく、99篇においても1節に、「主は王である」と定型句が用いられています。

  • ケルビムの上に座しておられる聖なる方 1~3節

この99篇の鍵になる言葉は、「主は聖なる方」という言葉です。この言葉は、詩篇99篇に3回、3節、5節、9節と出て来ます。そこで、1~3節、4~5節、6~9節と3つに分けて見て行きたいと思います。

まず、1~3節ですが、「恐れおののけ。…震えよ」と命じられています。

97篇では、「主は王である」ゆえに「小躍りせよ」小躍りして大いなる喜びと賛美をささげよ、と招いていました。ところが、99篇では、「恐れおののけ。…震えよ」と命じ、主が「大いなる方」「すべての国々の民の上に高くいます」方、「恐れ多い御名」を持っておられる方として紹介されています。

旧約聖書に、「聖」カドーシュは、120回用いられており、詩篇に15回、この詩篇では、3回も用いられています。

「聖」カドーシュとは、基本的に「分離する」という意味を持っており、「きよい」ということ、「輝く」と言う意味を持っています。すなわち、「主は聖なる方」とは、主なる神は、すべての人間すべての被造物からは、分離された、全くその本質が異なる方であり、罪深い人間が近づくことの出来ない「きよさ」をお持ちの方であり、栄光に「輝く」方です。言い換えるなら、主なる神は、「絶対者なる方」であるということです。ですから、「恐れおののけ。…震えよ」と言うのです。

1節に「ケルビムの上に座しておられる方」とありまが、ケルビムとは、御使いのことです。旧約時代、聖所の一番奥、至聖所と呼ばれる所に、アカシア材で造られ、金で覆われた「契約の箱」が安置されていました。その箱の蓋を左右から翼で覆っていたのが、ケルビムです。その箱の蓋のことを、「贖罪所」と呼んでいました。年に一度、大祭司が動物の血を携えて至聖所に入り、その血を、この「贖罪所」と呼ばれる蓋の上に、注ぐのです。そして民の罪が赦されるとしていたのです。すなわち、ケルビムは、血が注がれ、贖いの業がなされる様子を、「贖罪所」を翼で覆いながら見ていたのです。

イザヤ書6章をご覧ください。イザヤ書に「聖」カドーシュは、36回用いられており、一番多く用いられています。イザヤは、「聖」ということを強く体験し、語った預言者でした。ウジヤ王が死んだ年に、イザヤが神の栄光の満ちた神殿で、「主を見た」という経験をしたことが記されています。

そこにはセラフィムがいて、彼らが互いに「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と呼び交わしていました。聖なる神の栄光の前に、イザヤは、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れたもので、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王を見たのだから」と叫んでいます。イザヤは、聖なる主の御前に、自らがいかに罪深い者であるかを思い知らされたのです。そのように、「主は聖なる方」なのです。ですから、「恐れ多い御名をほめたたえよ」と命じられています。

  • 力と義をもってさばきを行われる聖なる方 4~5節

 詩篇99篇の4節に「王は力をもって、さばきを愛する。あなたは公正を堅く立て、さばきと正義をヤコブの中で行われた」とあります。「正義」と訳されている言葉は、ツァディークと言い、「義」ということです。主は力ある神、全能のお方であり、義なるお方です。主は、力と義をもってさばきを行われる事が歌われているのです。この「義」ツァディークという言葉には、「義、救い、恵み、勝利」というような意味が含まれています。

主は、このような「義」ツァディークをもって「さばき」をなさるのです。

「神のさばき」は、神のあわれみ、恵み、義、真実と深くかかわっています。神のさばきは、主に信頼する忠実な者には、救いですが、罪人には滅びです。さばきは、秩序の維持と回復をもたらします。ですから、神のさばきは、回復の希望と深く結びついているのです。

  • 赦し、報いられる聖なる方 6~9節

 6節に、モーセ、アロン、サムエルが出て来ます。モーセは祭司職の土台を据えた人であり、アロンは最初の大祭司であり、サムエルは、御名を呼ぶ者、すなわち預言書と呼ばれる第一人者です。「彼らは主を呼び、主は彼らの答えられた」とあります。すなわち、彼らは主に祈り、その祈りに主は答えてくださったということです。

8節に、「赦しの神」と「報復される方」という言葉があります。悪しき業をやめようとしない者には、主は怒り、その報いをされます。しかしへりくだって悔い改め、主の御名を呼ぶ者に、主は、赦しを与えてくださるのです。

も一度、イザヤ書6章をご覧ください。「ああ、私は滅んでしまう」と叫んだイザヤに対して、主なる神は、セラフィムの一人にお命じになりました。

「祭壇の炭火を持って行け。」セ、ラフィムは、祭壇から燃える炭火を、イザヤの所に持って行き、その炭火をイザヤの唇に触れました。そして、イザヤは、「見よ、これがあなたの唇ふれたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」との声を聞いたのです。

主は、私たちがへりくだって悔い改め、主の御名を呼ぶ時に、罪を赦しきよめてくださるのです。

最後に、イザヤ書57章15節をご覧いただきたいと思います。ここに、イザヤの見た新しい意味での「聖」の概念を見ることが出来ます。イザヤは、6章で「聖」ということを体験したところから、この新しい「聖」の概念を見出したのです。これまでの「聖」という考え方を180度転換した考え方を語ったのです。

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。『わたしは高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。』」

 これを小林和夫という先生は、「恩寵の聖、福音的聖」と呼んでおられます。聖であるお方が、私たちの罪を赦しきよめ、私たちとともに住み、遜った者の霊を生かし、砕かれた者の心を生かしてくださるというのです。

このことを、十字架の上で流された御子イエスキリストの血潮のゆえに行ってくださるのです。ですから、「われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。まことに、われらの神、主は聖なる方」と歌うのです。

結論 主は、ケルビムの上に座しておられる聖なる方であり、力と義をもってさばき、赦し、報いられる方であることを覚え、主をあがめ、礼拝をおささげしましょう。