復活の朝の出来事

礼拝説教「復活の朝の出来事」2022年4月17日

聖書 ヨハネの福音書20章1~18節 

(序)本日は、主が復活されたイースターです。私たちにとって喜びと希望に満ちた日です。

一、復活の朝の出来事

1.朝早く墓に向う女性たち

ヨハネによる福音書には、マグダラのマリアしか記されていませんが、

マルコによる福音書やルカの福音書には、ヤコブの母マリア、サロメ、ヨハンナそしてその他の女性たちが墓に向かったことが記されています。彼女たちは、安息日の終わった土曜日の夕方以降に香料を買い求め、翌日すなわち週の初めの日の早朝、主イエスに香料を塗ろうとして墓に出かけました。墓に着くと、主イエスがよみがえられたことを、御使いから知らされました(マルコの福音書16章1~8節)。

2.墓に急ぐ二人の弟子 1~10節 

マグダラのマリアは、ペテロとヨハネに、主イエスのご遺体が見当たらないことを告げます。ペテロとヨハネは、そのことを確かめるために、墓に急ぎます。

この光景を、ビュルナン(1850~1921)は、『走る二人の弟子』と題する絵に描いています。復活の朝の情景の中、主イエスの墓に急ぐ二人の弟子ペテロとヨハネの姿が描かれています。彼らの表情には、全きゆるしと解放と永遠のいのちへの期待が表れ、二人は、はるか前方を見つめ、祈るような姿でひたはしりに走っています。そして、二人の走る背後には、朝の希望の光が輝き始めています。

若いヨハネの方がペテロよりも足が速く、先に墓に着きました。先に着いたヨハネは、慎重に、墓の入り口から、からだをかがめて中を覗き込み、亜麻布が置いてあるのを見ました。後から息せき切ってやって来たペテロは、そのまま中に入り、頭に巻かれていた布と少し離れて巻かれたままになって置かれている亜麻布を見ます。ヨハネも後から入ってきて、そのことを確かめ、不思議に思いつつ帰って行きました。まだ彼らは、主イエスがよみがえらなければならないと言われた聖書の言葉(詩篇16篇10節、詩篇110篇1節、イザヤ書53章8節など)を理解してはいませんでした。

3.マグダラのマリアにご自身を現わされる復活の主

 マグダラのマリアは、主イエスのからだが見当たらないので、墓の外にたたずんで泣いていました。やがて泣きながら身をかがめて墓の中を覗き込みます。するとそこには二人の御使いが白い着物を着て座っていました。御使いたちは「なぜないているのですか」とマリアに尋ね、マリアは、主のご遺体が何者かによって取り去られたことを告げ、後ろを振り向くと、そこに主イエスが立っておられました。しかし、マリアは、それが主イエスであるとは気がつきません。園の管理人だと思っていました。御使いたちと主イエスが、繰り返しマリアに「なぜないているのですか」と尋ねている言葉は印象的です。マリアは、悲しみのために目がふさがれて、主イエスがおられるのにそれと気づかなかったのでした。私たちも、様々な悲しみや不安で目がふさがれて、復活の主イエスがそこに立っておられるのに気が付いていないことがあるのではないでしょうか。

 主イエスが、「マリア」と呼ばれたみ声に、マリアのぼんやりしていた目は開け、それが主イエスであることがわかりました。 マリアは、「ラボニ(先生)」と主イエスに答えました。主イエスにすがりつこうとしたマリアに、主イエスは、「わたしにすがりついてはいけません」とマリアの行動を制止します。主イエスは、マリアの思いを天的霊的なものへと変えられたのでした。私たちも、聖書を開いて読む時、私たちの霊の目を開いて頂き、ご自身を現わし、私たち一人ひとりの名前を呼んで語りかけておられる主の御声を聞く者となりましょう。

二、主イエスの復活の出来事から教えられること

イースターは、私たちにとって喜びと希望に満ちた日です。私たちの救い主、主イエス様が死を打ち破って、よみがえられたからです。

この朝、主イエスが復活された出来事から、教えられる二つのことだけをお話しして終わりたいと思います。

1.復活された主イエスは、今も生きておられます

主イエスは、悲しむマグダラのマリア、不安と恐れの中で部屋に閉じこもっていた弟子たち、疑いと不信に捉われていたトマスに、ご自身を現わし、悲しみを喜びに、不安と恐れを平安と希望に、疑いと不信を信仰へと変えてくださったのです。復活されたキリストは、今も生きておられ、私たちと共にいて、私たちの悲しみ、不安、恐れ、疑いと不信を、喜びと平安と希望と信仰へと導いてくださるのです。

2.主イエスを信じて眠った人々はやがて復活します

 主イエスは、死に打ち勝ち、私たちに勝利と喜びと希望をあたえてくださいました。第1コリント15章20節をご覧ください。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とあります。主イエスは、眠った者の初穂としてよみがえってくださったのです。ですから、すでに主にあって天に召された人々は、やがて主イエスの再臨の時に、よみがえらされるのです。私たちはこの希望に生きているにです。

 2000年1月3日の夕方のこと、父が、母の臨終が近いことを覚悟して、枕もとで祈り始めました。「父なる神様。今この時に、共にいて知子を守ってください。あなたの御手をのばして、知子を支えてください。知子の上にあなたのみこころをなしてください。天に召されるなら、安らかに召してください。あなたの御名をあがめます。癒してくださるなら感謝です。イエス様。知子の一切の一切となってください。知子の全存在をあなたの御手にゆだねます。アーメン」父は、祈り終えると、身をかがめ、母の顔を覗き込むようにして、母に語りかけました。「知子。イエス様が一緒だから大丈夫だよ。私もここにいるよ。今までよくやってくれたね。今まで仲よくやってこれてよかったね。」父の言葉に、母の目から一筋の涙が流れたようでした。しばらくして、母は、ニッコリと素晴らしい笑顔を見せました。その後、容態は少しずつ快方に向っているようでしたが、1月26日朝に息を引き取りました。葬りの一切が終わって、火葬の時でした、普段は物静かな父ですが、何と、火葬のボタンを押しつつ、「ハレルヤ」と大きな声で叫んだのです。父は、やがて主のご再臨の時、母も甦ることを信じて、「ハレルヤ」と大きな声で叫んだのでした。

(結論)主はよみがえって、今も生きておられます。主はよみがえって、主にある眠った人々をよみがえらせてくださるのです。この喜びと希望に満ちたイースターのこの日を、心から喜び感謝し、主をほめたたえましょう。