礼拝説教「わたしは渇く(十字架上の第五言)」2021年3月28日
聖書 ヨハネの福音書19章28~30節 棕櫚の主日
(序)本日は、棕櫚の主日であり、この一週間が受難週となります。
本日は、十字架上で主イエスが発せられた七つの言葉のうち、第5言を取り上げてお話しいたします。
一、渇く存在である人間
1、「たましい」ネフェシュの意味
「たましい」と訳されたネフェシュという言葉は、「いのち」「生き物」などの訳されます。その基本的な意味は、渇きを覚える「喉」を意味していたのではないかといわれています。箴言25章25節には、「遠い国からの良い消息は、、疲れたたましいへの冷たい水」とあり、詩篇69篇3節には、「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました」とあります。すなわち、人間は、渇きを覚える存在なのです。
2、様々なものに渇く私たち
私たちは、様々なものに渇きを覚える者です。力を使い果たして渇き、
幸福でありたいと渇き、貧しさの中で渇き、弱さの中で渇き、孤独の中で渇きます。
3、神に渇く者の幸い
詩篇42篇1~2節及び詩篇63篇1節をご覧ください。ここには、渇きを覚える存在である詩人が、神に対する切なる渇きを訴えている箇所です。何に渇きを覚えると言っても、主なる神に対して渇きを覚えることは、幸いな渇きです。主はそのような神を待ち望んで 切に渇く者を満ち足らせてくださいます。
二、十字架上で渇きを覚えられる主
ヨハネの福音書19章28節に十字架上の第五言「わたしは渇く」があります。私たちの渇きをいやしてくださる主イエスが、あの十字架の上で、「わたしは渇く」と言われたのです。28節を見ると、主イエスが、贖いの全てが完了したことを知って、「わたしは渇く」と言われたのが分かります。人は、何か大きな事を成し遂げたとき、一番に覚えるのは、渇きだそうです。ヒソプの先の海綿に酸いぶどう酒を含ませたものが差し出されます。十字架につけられる直前に差し出された没薬を混ぜたぶどう酒はお受けにならなかったが(マルコ15:23)、今はお受けになられました。
1、私たちと同じ肉体ゆえの渇き
主が渇きを覚えられたことは、主イエスが私たちと同じ肉体を持ち、渇く存在となってくださったということです。へブル人への手紙2章9節に「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」とあります。主イエスが私たちと同じ肉体を持ち、死を味わい、渇きを覚えられたのです。
2、贖いの御業の完成を宣言するための渇きの訴え
主イエスが、このとき「わたしは渇く」と言われたのは、のどを潤して、第6言の「すべてが終わった」と贖いの御業が完了したと宣言するためだったのです。ですから28節に「イエスは、すべてのことが完了したのを知って」とあります。贖いの御業の完了を宣言するため、のどを潤す必要を覚えられたのです。
3、聖書が成就するため
詩篇69篇21節をご覧ください。「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」とあります。ヨハネは、「わたしは渇く」という主イエスの第五言を聞いて思い巡らした時、この聖句を思い出したのです。
21節の「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」との聖句は、「すべての悩みと痛みとそしり」が主イエスの上に降りかかっていることを預言的に語っている箇所です。「苦味」とは、苦味のある毒草を意味する言葉であり、没薬をもさしていたのであろうという説もあります。「酢」とは、古くなって酸っぱくなったワインであろうと言われています。まさに、主イエスが、十字架にかかられた時、兵士たちは「苦味を混ぜたぶどう酒」「酸いぶどう酒」を飲ませようとしています(マタイの福音書27章34節、48節)。
三、渇ける者の渇きをいやすために、渇いてくださった主
マタイの福音書5章6節をご覧ください。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」とあります。主は、義に飢え渇く者の渇きをいやし、満ち足らしてくださるのです。主は、私たちの渇きをいやしてくださる方であり、また私たちの渇きをいやそうとして招いていて下さるのです。そして、私たちの渇きをいやすために、十字架の上で渇きを覚えてくださったのです。
最後に、詩篇22篇をご覧ください。この詩篇は「十字架の詩篇」と呼ばれ、主イエスの十字架の苦しみを預言的に歌っている詩篇です。特に、11~18節は、肉体的苦痛を述べている箇所です。特にこの朝注目していただきたいのは、15節です。「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっいています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」とあります。いよいよ苦痛は増し、水を引くように、またサーと血の気が引いて行くように、その力が失せるというのです。力が水のように失せ、心臓は破れ、舌は渇き、人々は犬かハイエナのように群がり、激しい痛みが手と足を貫くというのです。
主は、このような痛みと苦しみと渇きを覚えてくださったのです。それは、私たちの渇きをいやすためであったのです。
(結論)主が、私たちの渇きをいやすために、十字架の上で「わたしは渇く」と言われたことを覚え、心からの感謝をおささげしましょう。