新年礼拝説教「主の臨在と共に」大塚篤牧師2020年1月3日
聖書 出エジプト記33章14節
(序)本年の教団標語は、「今こそ、次世代への宣教と信仰継承を」
―教団創立70周年の年、次世代宣教3年目―。聖句が、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジプト記33章14節、新改訳2017)です。そこで、本日のメッセージは、出エジプト記33章14節よりお話するように導かれています。出エジプト記33章14節は、教団創立時のみことばでもあります。この年の7月20日、日本イエス。キリスト教団は創立70周年を迎えます。この年のためにも、主は、「わたし自身が一緒に行く」と仰ってくださっているのです。
- モーセの執り成し
32章において、イスラエルの民は、山の麓で金の子牛を作り、いけにえを捧げ、「すわっては飲み食いし、たっては戯れた」(32:6)と偶像礼拝の罪を犯しました。
神は、「彼らをたち滅ぼす」(32:10)と言われますが、モーセは、「今もし、彼らの罪をおゆるしくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、わたしの名を消し去ってください」(32:32)と命がけの執り成しをします。
詩篇106篇23節を見ると「もし、神の選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか」(新改訳)「しかし、主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた」(口語訳)とあります。モーセは、破れ口に立って、イスラエルの民のために執り成しの祈りをささげたのです。
- 主の臨在の約束
モーセが、祈り執り成す中で、出エジプト記33章14節の約束が与えられました。主は、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」と約束されたのです。「我みづから汝と共にゆくべし、我汝をして安らかにならしめん」(文語訳)このみ言葉は、1951年7月20日、日本イエス・キリスト教団創立時に与えられた御言葉です。今も、主ご自身が私たちと共に行き、安息を与えて下さいます。
出エジプト記33章14節を新改訳2017によると、「主は言われた。『わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。』」(出エジプト記33:14、新改訳2017)とあります。 主の臨在があたかも見えるごとくに共に行ってくださるのです。
三、主の臨在に対する確かな信仰
15節において、モーセは、「もし、あなたが私たちといっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください」と言っています。これは、主の臨在の約束に対して、「ご臨在がなければ」というモーセの絶体絶命の本質的弱さが示されている言葉です。それは、「きよめられた聖徒の姿」です。さらに、16節を見ると、「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか」とあります。他の民とは区別され、御心にかなった民のしるしとして、主の臨在があると語られているのです。
私たちも、「あなたが私たちといっしょにおいでにならないなら、」すなわち「ご臨在がなければ」という絶体絶命の本質的弱さを自覚し、主の臨在こそは、他の民とは区別され、御心にかなった民のしるしであることを覚え、主の臨在に対する確かな信仰を持たせていただきたいと思います。
昨年末に、『ベラカ』の聖書日課で、申命記を読みました。非常に印象づけられた言葉があります。申命記31章をご覧ください。齢120歳のモーセが、この地上での最後の言葉を、民全体に語っているところです。まず、6節と8節をご覧ください。モーセは、「強くあれ、雄々しくあれ。…おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。…主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と繰り返して語っています。そして、やがて入って行く地で、イスラエルの民が主の契約を破ることを、主が知っておられると言い、これまた繰り返して、「わたしの顔を彼らから隠す。…必ずわたしの顔を隠す」(17〰18節)という主のことばを告げています。
主の臨在、主の顔、主ご自身が、共に行かれないことの恐ろしさを思わされると共に、主の臨在、主の顔、主ご自身が、共に進んでくださる幸いを深く思います。
(結論)私たちも、「わたし自身が一緒に行く」「わたしの臨 在がともに行き、あなたを休ませる。」との主の臨在の約束を覚えつつ、この信仰に堅く立って、この年を踏み出してまいりましょう。