礼拝説教「満ちあふれる主の恵み」大塚篤牧師 2021年1月31日
聖書 テモテの手紙第一 1章12~16節
(序)本日は、パウロが自らの救いに関する証しの部分からお話するように導かれています。
一、強め、忠実な者と認められる幸い 12節
11節で、パウロは、「私はその福音をゆだねられたのです」と言いましたが、続いて福音をゆだねていただいた感謝を12~14節に述べています。ここに「感謝をささげています」という珍しい言葉が用いられています。この言葉は、神が、パウロを忠実なものと認めて、福音をあかしする務めに任命してくださったということを、恵みに感じて感謝しているのです。それは、神の一方的な恵みによるところの選びです。
その務めに、私たちが自分の力や才能で間に合う者になるのではありません。主がこの務めのために私を強くしてくださるという意識を、パウロは忘れてはいません。誰一人として、主に仕えるために、十分な力と知恵ときよさとを持っているものはいません。私たちは、主に仕えるために、主によって強められ、知恵をいただき、きよめていただかなければなりません。パウロは、主の選びと信任と任命と力づけを覚えて感謝しているのです。
二、満ち溢れる主の恵み 13~14節
パウロは、自らの過去を顧みて、「神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者」であったことを告白し、そのような者をも選んでくださった主のあわれみを感謝しているのです。この恵みに対する感謝は、キリスト・イエスに対する信仰と愛が深まれば深まるほど、ますます満ち溢れるようになったというのです。
イザヤ書51章1節に「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」とあります。私たちは、どのような所から救われたのでしょうか。その事を覚えるとき、主に感謝しないでは折れないはずです。
この前もお話ししましたが、第1コリント15章10節に、「神の恵みによって、私は今の私になりました」とのパウロの言葉がありました。
もし私たちが、まことの神様を信じないで今を過ごしていると考えると、どうでしょう。ゾッとするはずです。神様はこんな者をも救いに入れてくださったことを覚え心から感謝しましょう。
三、あわれみにより与えられた使命 15~16節
パウロは、15節で「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』という言葉は、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」と言っています。これは、パウロが、福音の中心であり、要である主イエスの「わたしは正しい人を招くためでなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2章17節)という言葉を念頭に、自らの体験に照らし合わせて、この言葉が真実の言葉であり、受け入れるに足る言葉であることを証ししているのです。パウロは、自らがその主のあわれみを頂いた罪人のかしらである事を告白しているのです。そしてそのような主のあわれみを受けたのは、今後、主イエスを信じて救われ、永遠の命を得ようとしている人々の良い見本としてくださったのだと感謝しています。
「救われたのは、救わんがため」とよく言われますが、私たちが救われたのは、私たちを通して他の人々が救いに預かるようになるためです。救われたのは、主に仕え、福音に仕え、教会に仕え、人々に福音を証しするためです。神様は、あわれみのゆえに、私たち一人ひとりに対して、使命を与えていて下さるのです。
友子という小母がおりました。1954年(昭和29年)5月22日、26歳で天に召されました。叔母は、嫁ぎ先で、妊娠中毒にかかり、離縁して、家に帰り、昼間でもカーテンを引いて真っ黒にした四畳半の部屋に四年の間寝たきりでした。何時よくなるとも分からない、暗い気持ちで、気兼ねしながら病の床に付していました。
何時病気が良くなるのか、何時まで生きられるのか分らない様な中で導かれ病床洗礼を中島彰先生から授かりました。
小母は変りました。依然その部屋は暗かったのですが、何か不思議な明るさ、輝きがありました。友子叔母の愛唱歌の賛美歌538番には、「過行くこの世,朽ちゆくわが身、なににか頼まん。十字架にすがる」とあります。まさに自分の身の上と信仰を重ねていたのでしょう。この世も過行き、この身も朽ち行く、もう頼るところは何処にもない。ただ十字架のみもとに頼るところを見出し、揺るぐことのない安息を見出したのであります。
小母が広告紙の裏に書き付けた手記が残っています。「私の一番悲しい日、それは私のわがままが通った日です。私の一番嬉しい日、それは私を看病して下さるお姉さんが、『私も友ちゃんの信じている神様が信じたい』と言ってくれた日です。」と書き残しています。
神様は、あわれみのゆえに、私たち一人ひとりに対して、使命を与えていて下さるのです。そして、主の恵みに満ち溢れさせてくださるのです。
(結論)主が、私をも救ってくださった恵みをまず感謝しましょう。そして、主は、私たち一人ひとりを忠実な者と認め、私たちに、主の福音を証しする使命を与えてくださっているのです。その使命を果たすために、主は、私たちに上からの力を与えてくださるのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ人への手紙4章13節)