礼拝説教「心打ち砕かれた者を癒す神」
2024年3月3日
聖書 詩篇147篇1~20節
(序)本編もはじめと終わりに、「ハレルヤ」とあります。
- 贖いにおける神の御力(1~6節)
- 神に向って、ほめ歌を歌い、賛美をすることは、良いことであり、楽しく、麗しいと、主を賛美しています。
賛美は、クリスチャンにとって良いことであり、楽しく、麗しいことです。6節までの一段は、その民を贖い、救い出してくださる主の力ある御業が賛美されています。
2節を見ると、「エルサレムを建て、イスラエルの追い散らされた者を集める。」とあります。主は、バビロン捕囚から解放して、エルサレムを再建し、民の再興をされるのです。私たちも主を信じる前は、罪と滅びとの中に捕らわれていた者でした。主イエスは、十字架による贖いによって、私たちを救い、解放し、キリストに連なる者、教会の一員にしていただきました。キリストを頭として一つに集められたのです。そこに他のものでは得ることのできない楽しみと喜びがあるのです。
エペソ人への手紙1章10節をご覧ください。「天にあるものも地にあるものも、一切のものがキリストにあって、一つに集められることです」とあります。神様のご計画の終極的目的は、この「一切のものがキリストにあって、一つに集められる」ということです。様々な理由で散らされていた者が再び集められ一つに集められるときがあるという約束です。それは何という喜びであり、麗しさの極みでしょう。
3節に、「心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷を包む。」とあります。主は、心が打ち砕かれ、失望した者をいやし、その傷をソーと包んでくださる方です。神戸ルーテル神学校の鍋谷堯爾先生が、『詩篇を味わう』という3巻の書籍を出版され、その出版感謝の集会に出席したことがあります。その時に、鍋谷先生が、「打ち砕かれた者としてこの『詩篇を味わう』という本を出しました」と挨拶されたことが心に深く残っています。まさに、詩篇は、心打ち砕かれた人々の祈りであり、心打ち砕かれた人々の祈りに答え、その痛みと傷を癒やしてくださる神様への賛美が歌われています。そして、この3節は、「心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷を包む」そのものずばりが歌われています。
5節、主は偉大なお方であり、力に富み、英知に満ちたお方です。主は、その御力をもって心の貧しい者を支えてくださいます(6節)。イザヤ書40章28~31節。永遠の神であり、創造者なる神が、その御力をもって、私たちを支え、強め、新たな力を与えてくださるのです。
- 自然界に働かれる神の御力(7~11節)
7節を見ると、感謝をもって、また、立琴をもって、主を賛美するようにうながしています。なぜなら、主は、雨雲をもたらし、雨を備え、草をはえさせてくださるからです(8節)。神様のご配慮は、動物たちやカラスの子にも及んでいます(9節)。そして、11節には、「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」とあります。すなわち、主を恐れ、その御恵みを待ち望む者を、主は喜ばれ、祝福してくださるのです。
- 摂理における神の御力(12~20節)
摂理とは、神が、その御旨に従い、世界と教会と一人ひとりのために、あらかじめ見て、知り、あらかじめ備え配慮してくださることです。創世記22章14節に、アドナイ・イルエ(主の山に備えあり)とありますが、これをラテン語訳でデウス・プロビデトと訳されたところから、プロビデンス(摂理)という英語が出来たのです。
12~20節には、主の摂理の御手に対する賛美が歌われています。特に、主が、みことばを送り、そのみことばがすみやかに走るようにして成就し、守りと祝福、平和と繁栄が訪れることを賛美しているのです。
最後に、エペソ5章19~20節をお開きください。御霊に満たされるとき、詩と賛美と霊の詩が溢れることが述べられています。インウードという先生によると、「これは、新しい喜びの継続だ」と言っておられます。
聖霊に満たされた人は、どんな時にも、継続して喜び感謝する者とされるのです。
(結論)私たちも、ご聖霊に満たされて、このような力と恵みに満ちた主を、いつも心から賛美する者となりましょう。