礼拝説教「御霊による一致を保つ」2024年1月14日
聖書 エペソ人への手紙4章3~6節
(序)本日は、この年教団に与えられている二つ目のみことばを中心としてお話し致します。本章より実践的部分に入ります。
一、召された召しにふさわしく歩む
その第一の勧めは、「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」ということです。「召された」とありますが、ギリシア語で、エクレセーテという言葉が用いられています。「教会」とはエクレシアと言いますが、「召された者の集り」のことです。ですから、「召された召し」とは、それまでパウロが語って来たことです。すなわち、神のみこころの良しとするところに従って、天地の基が据えられる前からすべての霊的祝福をもって祝福され、選ばれ、キリストの血のゆえに罪赦され、約束の聖霊による証印が押され、神の豊かなあわれみのゆえに、恵みにより信仰によって救われ、キリストの血潮のゆえに近づけられ、神の家族、神の宮、神のみ住まいとされ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知る者とされたということです。
ですから、「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」と言うのです。具体的に言うと、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」ということです。
- 謙遜あるいは謙虚とは、他の人を自分よりも優れたものと思うことです。柔和とは、優柔不断な性格を示すものではなく、完全に聖霊なる神のコントロールの下にある人ということです。
- 寛容(マクロスミア)とは、いらだたない、長く大きな心の持ち主ということです。
- 互いに愛をもって耐え忍び、平和の絆で結ばれるということです。
二、選ばれ召された者の本質的一致
4節より、教会の本質的一致が記されています。すでに選ばれ召された者には、これらの本質的一致が与えられているのです。
- 望みが一つ
私たちは、たとえ互いの考え方、生き方は違っても、みな同じゴールを目指しているのです。一切のものがキリストにあって一つに集められるとき、御国を受け継ぐということです。
- からだは一つ
教会とは、本質的に一つです。キリストの体は、いくつにも別れるはずがありません。教会の一致は、福音の前進のために不可欠です。これを乱すことは、キリストの働きを妨げることであり、主とご聖霊を悲しませることです。
3.御霊も一つ
一つ御霊によって、教会は存在し、生かされています。御霊なくして、いのちはありません。御霊を悲しませたり、消したりしてはなりません。
4.主はひとり
同じ「主イエス」を信じ、見上げるのですから、一致があるはずです。
5.信仰は一つ
「主」に対する信仰は、一つです。主の神性と主の主権と主の贖いを信じる信仰において一つです。深いとか、浅いとか、強いとか弱いとかはあるでしょうが、信仰の本質においては、一つなのです。
6.バプテスマは一つ
信仰の具体的な現れ、公の告白としてのバプテスマの一致を指しています。これを通して、正式に教会の一員に加えられたのです。
7.すべてのものの父である神は一つ
ここに神の全主権が、全知全能であることが、そして、内に住み、臨在し給う方であることが証しされています。ATロバートソンという聖書学者は、6節の「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです」という表現は、三位の神を証ししていると言っています。
この三位一体の唯一の神を信じるとき、私たちのうちに一致がないはずはないのです。私たちは、しばしば見失ってしまいます。そして、「一致がないのは、この事のせいだ、あの事のせいだ、この人のせいだ、あの人のせいだ」と呟いてしまいます。しかし、本質的な原因は違うところにあるのです。すなわち、神ご自身の御姿を見失っているからにほかなりません。
三、御霊による一致を熱心に保つ
このように私たちは既に本質的一致が与えられているのです。ですから、「御霊の一致を熱心に保ちなさい」と言うのです。「熱心に保つ(熱心に努める)」とは、スポーダゾー というギリシア語が使われています。このスポーダゾーとは、「急いで」「熱心に」という意味の言葉です。「本質的一致が与えられているんだから」と怠惰になり、無知でむなしく歩んではならないわけです。「一刻も油断せず熱心に与えられている御霊の一致を保ちなさい」というのです。
(結)私たちは、もう一度、そして、たびたび、事あるごとに、再確認をさせていただきましょう。私たちには、本質的一致が与えられていますことを、そして、それゆえに、「速やかに、熱心に御霊の一致を保つように努力しなさい」とみことばは勧めているのです。