礼拝説教「主にあって喜べ」2022年9月11日
聖書 詩篇97篇1~12節
(序)詩篇97篇も96篇と同じく大いなる喜びと賛美への招きの歌です。
一、王である主への賛美と喜び 1~7節
93篇1節や96篇10節のごとく、97篇1節においても、「主は王である」との定型句が用いられています。「王である」とは、「王として即位した」との意味も含んでおり、口語訳では「主は王となられた」と訳していました。いずれにせよ、主が厳然として、王として臨まれているゆえに、「小躍りして大いなる喜びと賛美をささげよ」と招いているのです。
2節に、「雲と暗黒が主を囲み」とあります。これは、人間である私たちは、主なる神の栄光をまともに見ることが許されていないことを述べているのです。申命記4章11~12節を見ると、「山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった」とあります。これはモーセが、かつてホレブすなわちシナイ山のふもとで、主なる神が、雲と闇と暗黒と火の中から語られた時の様子をモーセが、民に言って聞かせている場面です。
詩篇18篇9~13節をご覧ください。主は、暗闇と濃い雲をまとい、燃える炭火の中より、御声を聞かせられ、その臨在を示された事が歌われています。私たちは、その栄光のお姿をまともに見ることは許されないのです。97篇3~5節にあるように、主の稲妻は世界を照らし、神の栄光の御前に、地はおののき、御前に蠟のように溶け去るというのです。
王としての主なる神のご支配は、「義とさばき」を基としています。
6節、「天は主の義を告げ、諸国の民はその栄光を見る」のです。
二、主のさばきゆえの賛美と喜び 8~9節
2節にあるように、「王としての主なる神のご支配は、義とさばきを基としている」と申し上げましたが、8~9節に、主なる神が、王として義に基づいたさばきを行われるゆえに、「シオンは聞いて喜び、ユダの娘たちも、小躍りしました」というのです。主は、王の王として、その義に基づくご支配を実施されるゆえに、神の民は、喜び、小躍りするのです。
主なる神は、全地の上に君臨される「いと高き方」だというのです。
それゆえに、シオンも、ユダの娘も、そして選ばれた主の民がすべて、大いなる賛美と喜びをもって、主を礼拝するようにと招いているのです。
主の民にとって、あるいは教会にとって、最も重要なことは、大いなる賛美と喜びをもって、主を礼拝することです。「小躍り」するほどの喜びといのちに溢れる礼拝をささげる者でありたいと思います。
三、主の救いの御業ゆえの賛美と喜び 10~12節
8節では、「シオン」や「ユダの娘たち」が「喜び…小躍り」しましたが、10~12節では、「主を愛する者たち」、「主にある敬虔な者たち」、「正しい者たち」「心の直ぐな人」に対して、「喜び賛美せよ」と呼びかけられています。すなわち、主の大いなる救いの御業によって救い出され、主の守りの中に置かれている「主を愛する者、主にある敬虔な者」に対して、「主にあって喜び、その聖なる御名に感謝せよ」と招いているのです。
11節の「光は、正しい者のために蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために」とは、同じ意味内容が対句として並べられています。ここで「光」と「喜び」は同じ意味のことを言い換えているのです。すなわち、「光や喜びは、正しい者、心の直ぐな者のために蒔かれている」ということです。では、「光や喜びが、…蒔かれている」とは、どういうことでしょう。種は、土の中に蒔かれて、見えなくなりますが、やがて時が来ると、芽を出し、花を咲かせ、豊かな実を結ばせます。そのように、心の中に蒔かれた「光や喜び」も、すぐには外に現れないかもしれません。むしろ、暗くじめじめした時を過ごさなければならないことがあります。しかし、やがて時が来ると芽を出し、花を咲かせ、実を結び、喜び輝くのです。
そのように、主なる神は、私たちの心に、「光と喜びの種」を蒔いてくださるのです。ですから、12節、「正しい者たち、主にあって喜べ。その聖な御名に感謝せよ」と言うのです。どんな苦難の時にも、主とその聖なる御名を信じて、感謝し、喜ぶ者となりましょう。
(結論) 最後に、ペテロ第一の手紙1章5~9節をご覧ください。私たちも、「ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに躍る者」となりたいと思います。