礼拝説教「新しい歌を主に歌え」2022年9月4日
聖書 詩篇96篇1~13節
(序)本日は、詩篇96篇よりお話いたします。
詩篇96篇は、歴代誌第一16章23~33節とほぼ同じ内容の詩です。すなわち、これらの賛美は、ペリシテに奪われていた神の箱を、ダビデがキルヤテ・エアリムからダビデの町に運んだ時の賛美です。歴代誌第一
13章では、神の箱を、牛に引かせた新しい荷車に乗せて運びましたが、途中牛がよろめき、ウザが手を伸ばして箱を押さえ、神に打たれてしまいました。そこで、ダビデは、レビ人に神の箱を担がせ、角笛やラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせて、主の契約の箱を運び上げました。その時歌われた歌の一部が、この詩篇96篇です。
一、大いなる賛美と御救いの良き知らせへの招き
「新しい歌を主に歌え。全地よ 主に歌え」と大いなる賛美への招きがあります。「新しい歌」とは、主なる神の大いなる御業に感動して、心の底から湧き上がる賛美です。それとともに、既に存在する歌を、新しい感動をもって歌う時に響いてくる賛美でもあります。
2節に、「日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ」とありますが、主が大いなる救いの御業を行われ、人々の信仰が新しくされるごとに、「新しい歌」が生まれ、主の救いの御業という喜びのおとずれが世代を超えて伝えられ、主の栄光と主の奇しい御業が国々や広くすべての民の間に告げ知らせるように、と言うのです。
主は、実に「大いなる方、大いに賛美される方」であり、「すべての神々にまさって恐れられる方」です。5節、すべての神々といわれるものはみな偽りであり、主なる神は天地を創造し、威厳と威光、力と輝きに満ちた方であると告げ、大いなる賛美と御救いの良き知らせを広めるようにと招いているのです。
二、厳粛さと喜びに満ちた礼拝への招き
7節からは、すべての民に向かって、「栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。ささげ物を携えて、主の大庭に入れ」と感謝をもって礼拝をささげるようにと招いているのです。主なる神にささげる「ささげ物や献金」は、何か見返りを求めてささげる異教の賽銭とは本質的にその意味合いが異なります。すなわち、主なる神への「ささげ物や献金」は、主の大いなる御業に感謝して自発的にささげるものです。
そして、「聖なる装いをして、主に平伏せ」とは、主の御前に厳粛さをもって礼拝するようにと招いているのです。
10節に、「主は王である。まことに、世界は堅く据えられて揺るがない。主は公正をもって諸国の民をさばかれる」とあります。
世界には、悪がはびこり、しばしば貧しく弱い立場の人々が苦しめられることが起こります。しかし、主は王の王です。主はすべてを御手の内に治められる王の王として、お出でになる時があります。13節にあるように、「主は必ず来られる」のです。「地をさばくために来られる」のです。
ですから、「天は喜び、地は小躍り」するのです。海とそこに満ちているもの、野とそこにあるものはみな「喜び躍れ」と招き、「森の木々もみな喜び歌う」と賛美するのです。すなわち、天地の造られたすべてものが神をほめたたえて礼拝するのです。
この詩篇96篇は、ペリシテに奪われていた神の箱を、ダビデがキルヤテ・エアリムからダビデの町に運んだ時の賛美だと申し上げましたが、このキルヤテ・エアリムとは、「森の町」という意味の町の名です。後にこの場所は、復活の日の午後甦った主イエスが二人の弟子に現れたエマオという名で呼ばれたようです。以前聖地旅行に行った際、私もここを訪れましたが、緑豊かな木々に覆われた地域でした。11~12節に歌われている情景が目の前に広がるところです。私たちは、主を礼拝する時に、豊かな自然界の中で、すべての造られたものと共に、喜び躍り、主を賛美し礼拝したいと思います。
詩人は、すべての国民に向かって、その歴史を越え、全被造物と共に、喜びをもって、賛美し礼拝する広がりと豊かさの満ちあふれた礼拝へ加わるようにと招いているのです。
(結論)私たちも、この歴史を越え、すべての被造物へと広がる厳粛さと喜びに満ちた礼拝へ参加する者となりましょ