礼拝説教「私の主、私の救いの力なる神」 2023年11月26日
聖書 詩篇140篇1~13節
(序)この詩篇は、悪しき者の迫害からの救いを祈る詩です。「沈黙」を意味する音楽の休止符のような役割ではないかと言われるセラによって、4つの部分に分けられているのにしたがって、本日は、140篇を4つの部分に分けて味わってみたいと思います。
- 悪しき者の企み(1~3節)
1~3節、詩人は、よこしまな人や暴虐を行う者の恐ろしいばかりの様相を述べて、そのような者からの救いを求めています。暴虐な者は、心の中で悪を企み、日ごとに戦いを仕掛けてくるというのです(2節)。
悪しき者は、その舌を蛇のように鋭くし、唇の下にはまむしの毒があるというのです(3節)。創世記3章で、蛇がエバを誘惑したように、
悪しき者は、「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか?」とエバのあやふやな所や心のすきに入り込み、少しずつ疑いを植え付けてきます。そして、ついには、罪の罠の中に引き込むのです。「それを食べると目が開かれて…」と甘い言葉で惑わし、誘惑してくるのです。まさにそれは、唇の下にある「まむしの毒」です。シュルシュルと舌を出しながら近づいてくる悪しき者の姿が目に見えるようです。
二、悪しき者の暴虐(4~5節)
4~5節には、さらに激しく襲いかかる悪しき者の暴虐が描かれています。悪しき者は、足をつまずかせようと、わなを仕掛け、網を広げ、落とし穴を掘って待ち構えるというのです。悪しき者は、あからさまに牙をむき出しにし、両手の爪を立てて襲って来るようではありませんか。
詩人は、次々と襲って来る悪しき者の手から、「助けてください。守ってください」と神様に向かって叫び、祈り求めているのです。
三、救いは神にある (6~8節)
そのような悪しき者に取り囲まれる中で、詩人は、「救いは神にある」という信仰に立っています(6~7節)。
6節、「あなたは私の神」とまず、主への信頼を言い表し、「主よ。私の願いの声を聞いてください」と祈っています。私たちも、あらゆる苦難と誘惑が襲って来る時に、まず、主に向かって「あなたは私の神です。私の願いを聞いてください」と主への信頼を言い表し、祈ることです。そこから救いの道、解決の道が開かれます。
詩人のように、「私の主、神、わが救いの力よ」(7節)と全き信頼をもって、主に呼びかけるならば、主ご自身が私の救いの力となってくださいます。私の頭をさながらヘルメットのようにしっかりと「頭をおおい」守って下さいます。
出エジプト記15章2節をご覧ください。「主は私の力、またほめ歌、主は私の救いとなられた」と同じような表現があります。これは、神様が、紅海の水を二つに分けて、イスラエルの民を襲い来るエジプトの軍隊から守ってくださった時の勝利と感謝の歌の一節です。
さらに、ハバクク書3章19節もご覧ください。ここにも、「私の主、神は、私の力」と同じような表現が記されています。ハバククは、神の救い、神の回復の御業を待ち望んで祈った預言者です。彼は目の見えるところは、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる」という現実の中で、「しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、私の力」と信仰に立っています。どのよう目の前の現実であろうと、ハバククの受け取った「正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)というみことばは、パウロの心を動かし、ルターの信仰を奮い立たせたのです。実に、「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし」です。
四、神の顧み(9~13節)
9~11節、主が、悪しき者や暴虐な者を退け、滅ぼされますようにと願っています。私たちは、主の祈りの中で、「我らをこころみにあわせず、悪より救いい出し給え」と祈りますが、まさに同じ心です。
12節、「私は知っています。主が、苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われることを」と信仰を言い表しています。
「苦しむ者」アニーとは、心が砕かれている者のことです。「貧しい者」エビヨーンとは、極貧の者であり、主に頼る以外に拠り所を持たない者のことです。主は、苦しめられている者を顧み、正しい者を救われるのです。ですから、13節、正しい人は御名に感謝し、心の直ぐな人は、主のみ前に住むというのです。
最後に、ローマ人への手紙3章13節をご覧ください。ここには、詩篇140篇3節の「唇の舌にはまむしの毒があります」が他の詩篇のみことばと共に引用されています。パウロは、ここで、異邦人も、ユダヤ人もすべての人が、神の御前に罪人であることを語り、それを例証するためにこれらの詩篇を引用しています。140篇全体がこの一句に凝縮されて引用されているのです。そしてそこから3章21~25節の主イエス・キリストの贖いによる救いへと向かうのです。
様々な形や方法で悪しき者が私たちに襲いかかり、また私たち自身の内にも、このまむしの毒が潜んでいます。そのようなまむしの毒から私たちを救ってくださるのは、主イエスの贖いの御業であり、そのことを信じるところに救いがあるという結論に達するのです。
(結論)私たちの内にこのまむしの毒があり、主イエスの贖いの御業を信じる信仰が、その死の毒から救ってくださることを信じましょう。そして、ハバククのように、「私の主、神は、私の力」と信仰に立ち、「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし」と進ませていただきましょう。