礼拝説教「神の近くにいる幸い」2023年11月12日
聖書 詩篇73篇1~28節 秋季召天者記念礼拝
(序)73篇は、神殿楽長であるアサフの歌です。
一、目の前の現実に苦しむ信仰者
詩篇73篇は、1節の「まことに神は、いつくしみ深い。イスラエルに心の清らかな人たちに」というイスラエルにおける信仰の大前提で始められています。ところが、2節に入ると「けれども」と信仰の大前提に誠実に生きようとする信仰者の前に、それでは納得いかない現実が突き付けられて、足がつまずき、滑りかけたというのです。すなわち、悪しき者の栄える現実を目にしたのです。悪しき者、すなわち神を神と思わず、神を信じる者をあざける人々が、目に見えるところでは、安らかで、繁栄している現実を突きつけられるのです。それゆえに、詩人は、「なぜ?どうして?」と疑問を感じ、「ただ空しく、私は自分の心を清め、手を洗って、自分を汚れなしとした」(13節)と言うのです。「誠実な信仰者として生きることが何になるのか」と疑問を抱くわけです。そして、21節にあるように、「私の心が苦みに満ち…内なる思いが突き刺された」と感じたのでした。それは、「はらわたの裂ける思い」であったのです。
私たちも、様々な試練に直面する時、「どうして私だけが!」という思いにとらわれ、悩むときがあります。
二、自らの愚かさを悔いる信仰者
しかし、詩人は17節において、決定的な転換点を迎えます。それまでは肉の目に見えるものだけにしか意識が向いていなかった狭い視野が拡大されたのです。新しい視野が目の前に開けたのです。「ついに私は、神の聖所に入って、彼らの最後を悟った」(17節)とあります。アサフは、神殿で神に仕える者ですから、いつも神殿に入って賛美礼拝していました。しかし、物理的に神殿に入ったというより、特別の神経験をしたという事でしょう。神の臨在の前に、自らの心の「なぜ?いつまで?」「どうして私だけが!」という心の悩みを打ち明けたのです。ありのままを祈ったのです。そして、目が開かれた。ついに悟ったのです。そして分かったことは、「彼らの最後を悟った」だけではありません。彼らの繁栄を妬んでいた自分の内面に識別のメスが入れられ、自らの醜さが示されたのです。それは理性を持たない本能のままに生きている獣のような態度を神の前にしていたと気づき、反省し、悔い改めたのです。
私たちは、他の人の幸せを見る時、時として自分と比較して妬ましく思ったり、自分を卑下したりすることがあります。そこでは、私たちの目は主に向いていないのです。他の人や自分のみに目が縛られているのです。
主に目を向けたいと思います。
三、御前に近づけられた信仰者の幸い
21節からは、「あなたは」と神様に対する呼びかけと、「私は」と詩人自らを示す言葉が繰り返されています。詩人の目は、もはや「彼ら」にではなく、神と私の関係に焦点を絞っています。
特に23節には、「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手を、しっかりとつかんでくださいました」とあります。
すなわち、詩人は、愚かで、わきまえもなく、主の御前で獣のようにふるまっていました。それでも、詩人は「神と共にある」という事に気が付いたのです。「ああ!こんな者でも神とともにある。それはあなたが私の右の手をしっかりと握りしめていて下さったからだ」と気づいたのです。
24節、「あなたは、私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます」と信仰が与えられ、25節で、「あなたのほかに、天では、私にだれがいるでしょう。地では、私はだれをも望みません」と主への信頼と愛と誠実を誓っています。すなわち「主よ。あなたは、私の全ての全てです」と告白しているのです。26節「この身とこの心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩、とこしえに、私が受ける割り当ての地」と、どんなに肉体も心も衰え果てても、「主なる神様が、心に岩となって、足元をしっかりと支えてくださる」と信仰を言い表し、「主が私の嗣業、私の受ける分です」と言っているのです。すなわち、「あなただけが頼りです」と全く神に信頼していることを言い表しているのです。そして、26節、「しかし私にとって、神のみそばにいることが、幸せです」とこの詩の結論的な告白に到達しています。
18世紀の英国でリバイバル的な働きを成し遂げ、メソジスト教会を創立したジョン・ウェスレーは、87歳まで生きましたが、その臨終において、「最も良いことは、神が私たちと共におられるという事である」The best of all, is God is with us. と言いました。私たちも「主が共におられる」と言うことを生涯のモットーといたしましょう。
(結論)最後にもう一度、23節をご覧ください。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手を、しっかりとつかんでくださいました。」私たちが、主と共にあるのは、ただ主がご自身の御手を差し伸べ、私をしっかりと受け止めていて下さるからです。すでに召天された方々も、この恵みとこの信仰に生きていたのです。この事を覚え、主を信じ、寄り頼んで参りましょう。