礼拝説教「受け継いだ信仰の遺産⑤―臨在信仰ー」
聖書 詩篇27篇7~10節 2023年11月 5日
(序)本日は、「受け継いだ信仰の遺産⑤―臨在信仰ー」ということで詩篇27篇8節を中心にお話しいたします。
一、御顔を慕い求める
詩篇27篇8~9節をご覧ください。詩篇27篇は、ダビデ作の詩篇です。「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を慕い求めよ』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」とあります。ここで、ダビデは、「主の御顔」を求めています。
11月21日は、竹田俊造師が召天なさって73年を迎えます。
『燃ゆる棘』の中に掲載された「御顔の威光」と題する竹田俊造先生の説教の一節をお読みしたいと思います。
「神の臨在は確かである。その約束は変わらない。…その御声が聞こえるほど近くいましたもう。そのささやきすら聞こえる。しかし、その臨在にもかかわらず、神は、『汝ら、わが顔を尋ね求めよ』と言われる。ダビデは驚いて、はっとしたようにそのみことばに応じ、改めて叫び求めた。」(『燃ゆる棘』)
ダビデの主の御顔を求める姿がありありと映し出されて伝わって来るではありませんか。
旧約聖書で「主の臨在」を表す言葉は、「顔」を意味するパニームという言葉です。ダビデは、「主の御顔」すなわち「主の臨在」を慕い求めています。ダビデは、主の御前に静まり、その御声が聞こえるほど、主に近づいていますが、近づけば近づくほど、さらに渇いて主の臨在を求めているのです。
二、御顔の輝き
先ほどお読みしました「御顔の威光」と題する竹田俊造先生の説教の終わりに、「御顔の恵みは輝く」と小見出しが付けられて、六つの項目が挙げられています。すなわち、
①御顔の前には、満ち足りた喜びがある。
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16篇11節)主の臨在に接した時には、ことばでは言い表すことの出来ない満ち足りた喜びが与えられるのです。
②御顔は救いである。
「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇42篇5節)
私たちのたましいが、神様ご自身とその恵みを慕い求め、渇いているとき、主が私たちに御顔を向け、ご自身の臨在を明らかにしてくださるならば、それ自身が私たちの救いとなるのです。
③御顔は聖別である。
「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民とが、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」(出エジプト記33章16節)
「主ここにいます」と主なる神の臨在が、私たちの間に明らかにされるとき、他の人々とは区別され、聖別された者、主のものとされるのです。
④御顔は安息である。
「わたし自身が一緒に行って、あなたを休ませよう。」(出エジプト記33章14節)「我親(みずから)汝と共にゆくべし我汝をして安泰(やすらか)にならしめん」(出エジプト33章14節、文語訳)これは、私たちの教団が創立されて以来の標語として頂いてのみことばです。どんな時にも、主の御臨在は、私たちに安息を与ええくださるのです。
⑤御顔は勝利である。
「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、
自分の腕が彼らを救ったのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、
あなたの御顔の光が、そうしたのです。
あなたが彼らを愛されたからです。」(詩篇44篇3節)
主の御顔は、あらゆる困難と戦いの中で勝利を与えてくださるのです。
なぜなら、主は、御顔を私たちに向け、その右の御手、強き御腕を差し伸べ、ご自身の愛を示し、勝利を与えてくださるからです。
⑥御顔は隠れ家である。
「あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」(詩篇31篇20節)
これらの一つひとつを深く味わいたいと思います。
竹田俊造先生は、「御顔の恵みの輝き」の集約を父の独り子としての主イエスの栄光、すなわち恵みとまことに満ちた主イエスの御顔にある神の栄光の輝きのうちに見て、「カルバリの山で、事を成就された御顔の輝き、我らは、ペンテコステの恵みのうちに御顔を拝し、来るべき栄光の日を待ち望む」と結んでおられます。
三、神の臨在の不断の現実感
ダビデは、詩篇27篇1節で、「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のとりで。だれを私はこわがろう」と主への信頼を歌っています。その上で、ダビデは、主の御顔を切に求めて祈っているのです。
再度、8~9節をご覧ください。「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を慕い求めよ』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」
とあります。私たちも、主の御顔を、主の臨在を切に求めて、御前に静まりましょう。
竹田俊造先生の印象について、「主の臨在」である、と小島伊助先生は、『小島全集』第7巻に掲載された『懐かしの残像』という回顧録の中において述べ、しばしば竹田先生の御用された聖会において、「主の臨在」を経験させられたことを証ししておられます。
ドイツ敬虔派の聖書学者ベンゲルは、「敬虔とは、神の臨在の不断の現実感である」と言ったそうですが、私たちは、この「神の臨在の不断の現実感」に常に生きる者とならせて頂きましょう。
(結論)「神の臨在の不断の現実感」に常に生きる者となり、いつでも、どこでも、どういう状況でも、「私はここにいるよ」と仰って下さる主のみ声を聞く者でありたいと思います。