礼拝説教 「賛美と祝福の流れ」 2023年9月24日
聖書 詩篇134篇1~3節
(序)この詩篇は、120篇から続いて来た「都上りの歌」の最後の詩篇です。短い詩篇ですが、祝福に溢れた詩篇です。1~2節は、礼拝をするために上って来た会衆の呼びかけであり、3節は、祭司からの祝祷をともなった応答と思われます。すなわち、この詩篇には「礼拝における祝福」が歌われています。
さて、本日は、みことばの解説に先立ち、礼拝とは何かについて、その基本を手短に申し上げておきたい。
その第一は、礼拝とは神御自身に最高の価値を帰する事であり、礼拝はつねに神の啓示に対する応答としての悔い改めと感謝と献身と賛美です。
第二に、礼拝は聖霊の御助けによる生き生きとした自由さとみことばを土台とする秩序の中でささげられるものです。
第三に、礼拝は、キリストのからだである教会の共同のしかも家族的な行為です。それは、時間と空間、歴史と民族を越えた礼拝です。
- 礼拝への呼びかけ(1節)
1節、会衆は、「さあ」ヒネーあるいは「見よ」と注意を促し、「主をほめたたえよ」と祭司たちに呼びかけています。
「主のすべてのしもべたち」すなわち、「夜ごとに主の家で仕える者たち」である祭司たちに呼びかけています。歴代誌第一 9:33(14~16)。
この「仕える」ハオメディームとは、直訳では「立つ」ということです。申命記10:8、18:5。列王紀第一17:1.竹田羔一先生が『万軍の主は』の中に掲載するために羔一先生が書かれたみ言葉が講壇の右側に「万軍の主は活く、我その御前に立てり」と毛筆で書かれたみことばが掲げてあります。これは、竹田羔一先生なりの訳です。そこにも書かれていますように、「立つ」ということは、すなわち、「仕える」ということなのです。しもべは、いつでも主人の命令に従おうと「立って」仕えているわけです。私たちも、礼拝において、主のみことばに即座に従う思いを持って、主に仕え礼拝しようではありませんか。
二、聖所に向って手を上げ(2節)
2節、「聖所に向ってあなたがたの手を上げ」とは、祈りの姿勢を表しています。テモテへの手紙第一 2章8節に「きよい手を上げて祈りなさい」とみことばがあります。特にここでは、男性に向かって命じています。「男たちは怒ったり言い争ったりせずに」というのです。怒りの声を上げたり、手を上げたりしないで、その手を静かに主に向けて、「祈りなさい」というのです。私たちも日ごと夜ごとに、また事あるごとに、きよい手を上げて祈りの奉仕をする者となりましょう。
「主をほめたたえよ」と1節にありましたが、2節においても同様に「主をほめたたえよ」と命じられています。「主をほめたたえる」こと、すなわち主を礼拝することは、私たちのなすべき最高の行為です。主なる神は、その礼拝を喜んでくださいます。
三、天地を造られた主からの祝福(3節)
最後に、3節は、祭司によるところの祝祷です。「天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福されるように」と祭司は、創造者であり全能者であられる主からの祝福を祈っています。
民数記6章24~26節をご覧ください。これは、大祭司アロンがささげたところの祝福の祈りです。第2コリント13章13節の祝祷と共に、現在も教会の礼拝で用いられている祝福の祈りであり、共に三位一体的形式が保たれている祝祷です。
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」(民数記6章24~26節)
1.主の祝福と守り
第1に「主があなたを祝福し、あなたを守られますように」とあります。
まず、目につくことは、すべての主語は、「主が」だということです。すなわち、すべての祝福の主体は、神ご自身にあるということです。
「祝福」とは、ベラカです。このベラカとは、霊的な祝福から始まり、あらゆることがらにおいて、豊かに増し加わり成長していくところの力を与えるということです。そして、「守る」とは、あらゆる災いからの守りです。
2.御顔の輝きによる恵み
第2に「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように」とあります。「主が御顔を…照らし」という句は、詩篇にしばしば出てくる表現です。二つだけ引用しておきましょう。一つは、詩篇67篇1節です。「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に、照り輝かせてくださいますように」とあります。ここには、「御顔の輝き」とあわれみと祝福が関連して用いられています。他の一つは、詩篇80篇3節です。「神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます」とあります。ここには救いと回復との関連においての「御顔の輝き」があります。御顔の輝き、すなわち主の臨在には、私たちを救い、回復を与え、祝福してくださる恵みがあるのです。
3.御顔の助けによる平安
第3に、「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」とあります。「御顔を向け」とは、神の慈愛と恵みがあることを示しています。主なる神がその御顔を向けられる時に、私たちは、真の平安が与えられます。この「平安」という言葉は、欠けのない、満ち足りた状態を示しています。あらゆる事柄において、満ち満ちた者として下さるのです。愛と真実に満ちた主は、このような祝福を備えて下さっているのです。
もう一度、詩篇134篇に帰って頂きましょう。3節の「天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福されるように」というのは、祭司からの祝祷だと申し上げました。天地を造られた創造者なる神様が、シオンすなわちシオンにある聖所から一人ひとりに祝福があるようにとの祝祷です。
この「祝福する」と訳された言葉と「ほめたたえる」と訳された言葉は、同じヘブル語のベレフーという語が用いられています。名詞では「ベラカ」です。1節、2節には、礼拝する者、主に仕える者から主への「ほめたたえる」ということがあり、3節には、主からの「祝福あれ」があるのです。
礼拝は、このようにいつも主と私たちの間における双方向の交わり、啓示と応答があるのです。
そして、祝祷には、派遣の意味があるということを最後に申し上げましょう。祝祷は、神様の祝福を頂き、その祝福を証しするために、集められたこの所から、各家庭に、職場に、学校に、地域に遣わされて行くのです。
(結論)愛と真実に満ちた主は、このような祝福を与えようと備えて下さっています。私たちもその恵みに応えて、心からの感謝と賛美をもって主を礼拝いたしましょう。そして、主の祝福を頂いて、主の恵みのみことばを証しする者としてこの所から遣わしていただきましょう。