礼拝説教「我らの助けは主の御名にあり」2023年7月9日
聖書 詩篇123篇1~4節、詩篇124篇1~8節
(序)本日は、詩篇123篇と詩篇124篇を同時に見たいと思います。
一、主に向かって目を上げる 123篇1~4節
詩人は、「天の御座に着いておられる方よ」と呼びかけ、主に向かって目を上げ、主の助けを祈り待ち望んでいます。詩人は、僕が主人の手を見上げて、主人の意図をいち早く察知し仕えている姿を例に引いています。主人は、忠実なしもべに対して、すべてを任せ、同時に保護を与えています。そのように、主は、主を愛し、主に忠実に従う者を守ってくださるとの信仰を込めてこのように歌っているのです。
3~4節、詩人は、蔑みと嘲りに囲まれる中で、主のあわれみと助けを求めて主を見上げています。詩篇113篇6節をご覧ください。「身を低くして、天と地をご覧になる」とあります。詩篇123篇1節は、113篇6節と対になっています。御座に座しておられる至高のお方が、「身を低くして、天と地をご覧になる」(6節)というのです。主は私たちが近づけないほど高くあられますが、身をかがめ、私たちを愛とあわれみをもって顧みてくださるのです。イザヤ書57章15節には、「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方」が、「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである」と言われます。私たちが主を見上げて祈る祈りに、主は耳を傾け、身をかがめ、祈りを聞いて、降って来て、救いの御業を行ってくださるのです。
二、もしも主が味方でないなら 124篇1~5節
124篇においても、詩人は、敵に囲まれ、恐ろしい獣に丸呑みにされた小鳥のように、あるいは荒れ狂う大水の濁流に押し流されるという経験をしています。「もしも、主が私たちの味方でなかったなら」と1~2節に繰り返されていますが、これは、仮定法であり、「主は私たちの味方であられた」ということを強調しているのです。118篇6節においては、「主は私の味方、私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方、私を助ける方」と歌っています。ローマ人への手紙8章31節もご覧ください。主の恵みのゆえに義とされ、栄光を与えれることについて、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とあり、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえも死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」と言っています。すなわち、神様は、私たちの味方として、私たちを助け、必要のすべてを与えてくださるお方だと言っているのです。
三、私たちの助けは主の御名にある 124篇6~8節
詩人は、主によって危険から助け出されたことを感謝しています。詩人は、主が、私の味方として、私を助け、救い出してくださる方であることを確信しています。詩人は、天地を造りこれを保っておられる方が、助け出してくださるのだという信仰に立っているのです。
8節に「私たちの助けは、…主の御名にある」とありますが、聖書において、「御名」は、主の実質を 言い表しています。すなわち、「主の御名」は、主ご自身を示しているのです。ちなみに、「主」と訳されたヤハーウェという聖四文字があります。この聖四文字のところに来ると、ユダヤ人の人々はあまりにも聖なるお名前なので、同じ意味のことばのアドナイと読み替えて読んでいました。同じように、「御名」を意味するハッシェームと読み替えてもいました。そのように、「主の御名」は、主御自身を示しているのです。私たちも、危機的状況の中で、瞬間的に「お母さん!」とか、「お父さん!」、「神様!」と細かい説明は抜きにして、ただ名前を呼ぶではありませんか。主は、そのような私たちの叫びに答えてくださる方です。
「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」とありますが、
詩人は、天地を造られた大いなる神が、この小さな私に目を留め、私の味方として私の側に立ち、助けてくださるという確信に立って主を賛美し、感謝をささげているのです。
(結論)かくして、私たちは、天地を造られた大いなる神が、この小さな私に目を留め、私の味方として私の側に立ち、助けてくださるという信仰と感謝に溢れて、毎週の礼拝をささげたいと思います。