受け継いだ信仰の遺産⓵ー義認の恵みー

礼拝説教「受け継いだ信仰の遺産⓵―義認の恵みー」2023年7月2日

聖書 ローマ人への手紙3章21~24節、

(序)私の神戸生田教会での牧師としての働きもあと残すところ9ヶ月となりましたので、私たちが「受け継いだ信仰の遺産」と何なのかを語っておくべき必要を感じましたので、毎月第1主日にそのことをお話しして行きたいと願っています。まず第1回目は、「義認の恵み」ということです。これはクリスチャン信仰の土台となりますので、しっかりと心に留め、あなたのものとして頂きたいと思います。

一、贖罪信仰

 贖罪信仰の土台には、言うまでもなく主イエス・キリスト様の十字架の贖いの御業があります。エペソ人への手紙1章7節をご覧ください。「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」とあります。主イエス様が、十字架の上で流してくださった贖いの血潮のゆえに、私たちは罪赦されていうのです。主イエス様は、十字架上の第1言において、「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカの福音書23章34節)と私たちのために祈ってくださいました。そして、第4言「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイの福音書27章46節、)マルコの福音書15章34節)は、捨てられなくてよいお方が、捨てられて当然の私たちのために、捨てられてくださったという事実がここにあります。それゆえに私たちは罪の赦しをいただいているのです。罪赦されて、新しく生まれ変わらせていただきました。それを「新生」と言います。そして、神様と和解し平和を与えていただきました。

二、信仰義認

 私たちは、罪の赦しをいただき、新たに生まれ変わった者とされ、神との平和をいただきました。そればかりではなく、「義と認められた」すなわち、一度も罪を犯したことの無い者と同じように見てくださるというのです。しかもそれは、ただ信仰のゆえに与えられるものだというのです。

ですから、これを「信仰義認」と呼びます。本日読んで頂きましたローマ人への手紙3章21~24節をご覧ください。22節には、「信じるすべての人に与えられる神の義」とあります。続いて24節には、「キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」とあります。ですから、この「義認」とは、「神の恵み」だというのです。28節には、「信仰によって義と認められる」とあります。4章に入って、創世記15章6節の「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とアブラハムの例を引用して「信仰義認」ということが語られています。6節からはダビデの例が引用されて「信仰義認」ということが論じられます。16節には、「そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです」と結論づけられています。

 この「信仰義認」の絵として、放蕩息子を迎える父親の姿があります(ルカの福音書15章20~24節)。父親は、遠くであるのに帰って来た息子を見つけ、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけし、衣を着せ、指輪をはめ、履物を履かせ、「この息子は、死んでいたのにいきかえり、いなくなっていたのに見つかったのだから」と祝宴を開いています。そのように、神様は、信仰のゆえに私たちを義と認めてくださるのです。

三、義認は新生に先立つ

さて、「新しく生まれ変わった」、あるいは「新生」というのは、私たち人間の側の体験です。ですから分かり易い。しかし、「義認」というのは、神様の側でそのように見てくださるということですから、なかなかクリスチャンであってもピンと来て、恵みに感じることが多くはありません。

しかし、覚えてください。これは私たちの信仰の基本中の基本であり、根幹です。こちらの側がどうあろうと、神様の側では、その信仰のゆえに、私たちを義と認めて下さっているのです。

 「義認は新生に先立つ」ということについて、ウエスレーは、「新生」と題する説教の中で(ウエスレー著作集第5巻)、「時間の順序から言えば、両者のうちのいずれもが他に先立つということはない。…しかし、いわゆる思考の順序から言えば、義認は新生に先立つ」と語っています。

  要するに、私たちが受け継いだ信仰の土台は、「信仰義認」にあるということです。そしてこれは、私たちだけのものではなく、プロテスタント教会のどの教派の人であろうともアーメンと同意するところの信仰です。

(結論)私たちは、この「信仰義認」という信仰の遺産をしっかりと受け継ぎ、次の世代に手渡したいと願います。