聖書 詩篇122篇1~9節
(序)エルサレムの平和と繁栄を祈り、喜び歌っています。「ダビデによる」と表題にありますが、ダビデの作というよりは、ダビデを記念しての歌であり、バビロン捕囚帰還後の歌と思われています。
- 巡礼者の喜び(1~2節)
1節、「さあ、主の家に行こう」と人々が言う言葉に、詩人は、喜びます。長い間、異国の地にあり苦悩の中にあった彼らでしたが、神を礼拝するために、エルサレムへ行くことを許され、今や「さあ、主の家に行こう」と出発をしてその道中にあります。私たちも、毎週の礼拝を、このような感謝と喜びをもって待ち望み、また、互いに声を掛け合って礼拝に出席したいものです。この1節には、礼拝に対する深い愛が表されています。2節、「エルサレムよ、私たちの足は、あなたの門の内に立っている。」
彼らは、長い巡礼の旅の後、ついに、エルサレムに到着し、その門の内に立っています。その感謝と感激にあふれてこのように賛美しているのです。私たちも、礼拝の民として、感謝と感激、喜びと賛美に満ちて毎週の礼拝を主の御前にささげたいと思います。
- 麗しの都エルサレム(3~5節)
3節、「一つによくまとまった都として建てられている」と聖都エルサレムのすばらしさが歌われています。主を礼拝する聖所を中心とし、町並みが広がり、城壁が囲んでいます。4節、そこには、イスラエルの証しとして、律法にしたがって、主の御名に感謝するために、多くの部族がやって来るというのです。レビ記23章には、それぞれ季節ごとに定められた祭り、すなわち過越しの祭りや七週の祭り、仮庵の祭りなどがあり、その時々の礼拝の内容が記されています。これらの祭りにおける礼拝に人々は、エルサレムへと巡礼をするというのです。
また5節には、「そこには、さばきの座、ダビデの王座があるからだ」と政治の中心である王国の中心、すなわち首都としての機能をもつ都である事が歌われています。エルサレムの麗しさの一つは、そこにダビデの家の王座があり、ダビデの子孫が治めていたからです。すなわち、それは、私たちにとって、日々の生活の中心に礼拝があるということを自覚し、それを常に守り、感謝と喜びをもって歩むことです。それがクリスチャンの祝福であり、教会の麗しい姿です。
また、ダビデの家の王座、すなわち、ダビデの子孫として生まれてくださった主イエス様を私たちの心の王座に、私たちの生活の中心に置くということです。すなわち、私たち一人ひとりの日々の生活の中心に、主の臨在を覚えて歩むということです。そこに、クリスチャンの祝福があり、教会の麗しい姿があるのです。
- 平和の祈り(6~9節)
エルサレムのための祈りがささげられています。エルサレムとは、「平和の基礎」という意味ですが、まさにエルサレムの平和を求めることは、神の民全体の平和と繁栄を求めることにつながっています。
ローマ人への手紙15章33節、16章20節、第Ⅱコリント人への手紙13章11節、第Ⅰテサロニケ人への手紙5章23節、へブル人への手紙13章20節をご覧ください。これらの箇所に「平和の神」とあります。「平和の神」である主は、秩序を乱し戦いを仕掛けて来るサタンを踏み砕き、私たちの内に平安と安息、喜びと繁栄、秩序と一致を与え、霊と心と体を完全にし、守ってくださる方です。
エルサレムの平和を求めることは、「平和の基礎」であり、神の民全体の平和と繁栄を求めることにつながっていると申し上げましたが、ここ詩篇122篇6~9節には、エルサレムの上に、主なる神を愛する人々の上に、城壁の上に、宮殿のうちに、兄弟、友の上に、主の家のために、平和と繁栄を求めています。ですから礼拝において、私たちは、私たちの家族、兄弟姉妹、友人、私たちの教会、私たちの町、私たちの国、全世界の平和と繁栄を祈り、また労する使命を与えられているのです。
アッシジの聖フランシスコの作と思われている「平和の祈り」と題された美し祈りの詩があります。マザーテレサや様々な方によって引用されている有名な詩です。
「私をあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのある所に愛を、いさかいのある所にゆるしを、
分裂のある所に一致を、疑惑のある所に信仰を、
誤っている所に真理を、絶望のある所に希望を、
闇に光を、悲しみのある所に喜びを、もたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、私が求めますように。
私たちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。」
私たちも、この詩に込められているような思いで人々のために祈り、労する者として頂きましょう。
(結論)私たちは、礼拝の民として、感謝と感激、喜びと賛美に満ちて毎週の礼拝を主の御前にささげましょう。私たちの日々の生活の中心に礼拝があるということを自覚し、日々の生活の中心に、主の臨在を覚えて歩みましょう。また、私たちの家族、兄弟姉妹、友人、私たちの教会、私たちの町、私たちの国、全世界のために平和と繁栄を祈り労する者となりましょう。