礼拝説教「わが足のともしび、わが道の光、」2023年5月14日
聖書 詩篇119篇97~120節
(序)本日は、詩篇119篇97~120節よりお話し致します。
一、私の口に蜜より甘いみことば(97~104)
97節、詩人は、「どれほど私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう」とみことばを愛していることを告白しています。それは、みことばが「一日中、私の思いとなっています」と言うほどです。
詩篇1篇2節では「主の教えを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ」とあります。私たちも、絶えずみことばを口ずさむ者でありたいと思います。98~100節、詩人は、みことばによって、賢くされていることを大胆に述べています。敵よりも、すべての師よりも、老人よりも、賢く、悟りある者とされていると言うのです。ですから、101~102節、詩人は、みことばを守るために、「悪の道から足を引き止め」、「あなたの定めから離れませんでした」と言うのです。103節、詩人は、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」と言い、みことばがどれほどに慕わしいものであるかを述べています。ルカ10章39~40節をご覧ください。もてなしのために心が落ち着かない姉のマルタとイエス様の足元に座ってみことばに聞き入る妹のマリアの姿が描かれています。私たたちも、何を置いてもまずみことばに耳を傾ける者となりましょう。
二、私の足のともしび、私の道の光り(105~112)
105節、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光りです」とあります。このみことばは多くのクリスチャンが、愛誦聖句として選んでいるみことばです。実に、みことばは、私たちの日毎の歩みを照らし、人生の行く道を指し示す確かな導きです。ここで「私の道」と訳されているヘブル語の言葉は、一般的に「道」を意味するデレクではなく、ネティバーという言葉が用いられています。広い「公道」ではなくて、「小道」を意味しています。すべての人が知っているというのではなく、私だけが知っている森の小道、峠の小道、谷間の小道です。主は、私の歩む日々の小道を共に歩み、導いてくださいます。私の歩む小道の光として、常にみことばをもって導いてくださるのです。
詩篇25篇10節に、「主の小道はみな恵みと、まことである」とあります。聖書に、一般的な道と大路と小道があります。一般的な道は、「踏みしめる」という意味から派生しています。大路は、公の道であり、大勢の人が隊列をなして進むような大通りです。それに対して、小道は、知っている者のみが知っているような隠された小さな道であり、個人的な親密さのある道です。主は、私たちに、主の小道を示してくださいます。その小道は、恵みとまことであるというのです。
119篇105節に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光りです」とあるように、私たちの小道を知っていてくださり、導いてくださるのです。107節、私たちが歩む道は、時として悩みの道になることがあります。詩人は、「私はひどく苦しんでいます」と言い、「主よ。みことばのとおりに私を生かしてください」と祈っています。108節、「口から出る進んで献げるささげもの」とは、祈りと賛美のささげもののことです。助けられ、守られた詩人は、主に感謝の祈りと賛美のささげものをしているのです。109~110節、詩人は、「私はいつもいのちがけです」と、置かれている実状を述べ、その様な中でも、「あなたのみおしえを忘れません。…あなたの戒めから迷い出ません」と信仰の決意を語っています。111節、詩人は、「あなたのさとしを永遠に受け継ぎました。これこそ、私の喜びです」と、みことばを聞いて、それを自分のものとして受け取る幸いを述べています。みことばは、どんな時にも私たちを助け導いてくださいます。ですから、どんな時にも、みことばを求め、みことばに寄り頼み、みことばを私のものとしましょう。ですから、112節、詩人は、「あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも」と、みことばを聞いて行うことに自分の意識を集中するのです。
三、私の隠れ場、私の盾(113~120)
113節、詩人は、「あなたのみおしえを愛します」と言い、114節、主に向かって、「あなたは私の隠れ場、私の盾」と言って、主を心から信頼し、みことばを待ち望んでいます。主は、私たちの祈りに応え、その時に必要なみことばを備え、私たちの「隠れ場、盾」となって、私たちを守り、保護してくださいます。
私は、神学生の1年の終わりに、JR塩屋駅の所で二重の追突事故を起こしてしまい、退学しようかと考えていた時でした。小島伊助先生が「血潮に隠れるんだよ」と人づてに言葉をかけてくださいました。嬉しかったですネ。そうです。主はいつでも、私たちに血潮を示し、私たちの「隠れ場、盾」となってくださるのです。
115節、詩人は、人がどうあろうと悪と訣別し、「この私は、私の神の仰せを守る」と決意をもって言い切っています。ですから、116節、詩人は、「みことばのとおりに私を支え、生かしてください」と願い、
117節でも、「私をささえてください」と祈っています。この祈りは、私たちの祈りでもあります。「そうすれば私は救われ、絶えずあなたのおきてを見つめることができます」と言っています。主の恵みとあわれみのささえがあればこそ、私たちは、みことばに目を留め、信仰を持ち続けることが出来るのです。118~119節、主は、地上のすべての悪しき者を、金かすのように取り除かれます。ですから、120節、詩人は、自らが不完全な肉にしか過ぎないことを自覚し、恐れ震えています。私たちが、主に近付くことのできるのは、ただ主の贖いの御業があるゆえです。最後に、ペテロの手紙第一1章15~19節をご覧ください。
(結論)蜜より甘いみことばに耳を傾け、私の足のともしび、私の道の光りであるみことばに導かれて歩みましょう。血潮のゆえに御前に近づき、主を「私の隠れ場、私の盾」とさせていただきましょう。