礼拝説教「主の仰せを喜び愛する」2023年4月23日
聖書 詩篇119篇25~48節
(序)この119篇は、聖書の中で最も節の多い詩篇です。176節が、アルファベット22文字で区分され、それぞれの区分は、それぞれのアルファベットの文字で始まっています。この詩篇119篇全体は、聖書のみことばが、私たちにとって如何なるものであるかが歌われています。その中から25~48節を見て参りたいと思います。
一、みことばに従って生き、真実の道を歩む(25~32)
25節、「私のたましいはちりに打ち伏しています」とは、詩人が困難に遭遇してうなだれている様子がうかがえます。しかし、詩人は単にうなだれているだけではありません。主を見上げて、「みことばのとおりに私を生かしてください」と祈っています。どんな時にも、「みことばのとおりに生かしていただくのだ」という信仰に立つことは幸いです。詩人と共に私たちも、そのような願いと信仰を持ちましょう。
26節、「私は自分の道を申し述べました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。」詩人は、誰にもわかってもらえないような自らの置かれた困難な状況を主に申し上げています。主に祈りをささげ、みことばを深く思うことは、まさに神様との会話です。祈りとみ言葉の黙想の中で、主に近づき、親しく主と交わることを私たちは許されているのです。
27節の「語り伝えることができるように」とある箇所は、23節の「思いを潜めます」とあるところと同じヘブル語の言葉が用いられています。ですから、聖書協会共同訳では、「あなたの諭しの道を悟らせてください。私は奇しき業を思い巡らします」となっています。
詩人は、みことばを悟ろうとして、みことばを反芻し、思い巡らし、主なる神の奇しい御業に目を留めているのです。
28節、詩人は、悲しみのために、たましいが溶け去るように思える経験をしています。彼は、悲しみの涙がとめどなく流れ落ちる時にも、ひたすらみことばに目を留めています。みことばは、私たちの支えです。みことばによって、私たちは強められるのです。
ですから、詩人は、30節で「私は、真実の道を選び取り、あなたの定めを自らの前に置きました」と言っています。私たちは「真実の道」を選び取り、みことばをいつも私たちの前に置きたいと思います。そうするならば、動揺したり、動かされたりすることはありません。
31節の「固くすがります」とは、「ピターッとくっ付ける」ことです。
どの様な状況にお置かれても、みことばに私たちの思いと私たち自身を「ピターッとくっ付け」ましょう。
32節、詩人は、「仰せの道を走ります」と言い切っています。詩人は、もはやトボトボと歩いてはいません。みことばの道、信仰の道を走っています。しかも「心を広く」されて晴れやかに進んでいます。
二、みことばから目を離さず、真理の道を歩む(33~40)
33~34節、詩人は、「あなたのおきての道を…教えてください。…悟らせてください」と願っています。そして、詩人は「それを終わりまで守ります。…あなたのみ教えから目を離さず…」と誓っています。そして、35節で、詩人は、「主の仰せの道を歩むことを喜びとしています」と告白し、「あなたの仰せの道を踏み行かせてください。導いてください」と願っています。36~37節で、詩人は、不正な利得や空しい虚栄、偶像礼拝などに傾かないように「主の道のど真ん中に、私を生かしてください」と願い、決意を述べています。
38節に、「あなたのしもべへの仰せのことばが成り」とありますが、聖書協会共同訳には「あなたの僕のために、あなたの仰せを実現させてください。それはあなたを畏れ敬うためです」とあります。要するに「みことばを、私たちの現実の生活の中で実現成就してください」と願っているのです。
40節、「御覧ください。(ヒネー)」と主に呼びかけ、どれほど切にみことばを慕い求めているかを告げています。詩人は、あなたの義によって、あなたの救いの御業によって、「私を生かしてください」と願っています。
三、みことばを喜び、愛する(41~48)
41節、詩人は、「みことばのとおりに」恵みと救いがもたらされることを知っています。恵みは、神の救いの御業の根源です。救いは、困難と戦いの中で、日々に与えられる神の現実の御業です。私たちはこの恵みによって救いに与っているのです。エペソ人への手紙2章4~8節。
42~43節、詩人には、現実の戦いが目の前にあります。ですから、日々みことばに信頼し、みことばを待ち望んでいます。
43節に「真理のみことばを取り去ってしまわないでください。」とありますが、「取り去ってしまわないでください」という所に、「アッド・メオッド(非常に。極みまで)」という言葉が用いられています。それを通して、切実な願いを言い表しているのです。因みに、8節にも同じ言葉が出てきました。「私を完全には、徹底的には、とことん見捨てないでください」と言うところです。すなわち、ここでは、「私から真理のみことばを、完全には、徹底的には、とことん取り去らないでください」ということです。それほどの切迫感をもって詩人は、みことばを待ち望んでいます。私たちも、そのような切実さをもってみことばを慕い求めるなら、主は、みことばをくださり、救いと勝利の現実を見せてくださいます。ですから、44~45節、詩人は、主のみ教えを、つねに、とこしえまでも守り、広い所を歩いて行くというのです。
47節、詩人にとって、主のみ言葉は、喜びであり、愛するものです。
48節、詩人は、手を差し伸べて祈り、思いを集中してみことばを求めています。
(結論)最後に、32節、35節、45節に目を留めてください。詩人は、みことばの恵みをいただいて、喜び感謝し、その道を堂々と歩いています。
日々、みことばを切に求め、みことばに目を留め、みことばを喜び、愛して、心を高く挙げて勝利と喜びをもって歩む者とならせていただきましょう。