礼拝説教「救いの杯を掲げて」2023年3月26日
詩篇115篇1~18節 詩篇116篇1~19節
(序)先週は、過越の食事の中で歌われた113篇と114篇を、主イエスが最後の晩餐の時にどのようなお気持ちで、これらの詩篇を歌われただろうかを考慮しつつ、味わいました。本日も、過越のメインの食事の直後に歌われた詩篇115篇と詩篇116篇を共に味わいたいと思います。
一、主に信頼せよ、主こそ助けまた盾(詩篇115篇1~18節)
詩篇115篇は、「主に信頼せよ」という言葉が、9~11節に三回出て来ます。そして、「祝福してくださる」という言葉が12~15節に、五回出て来ます。これがこの115篇の中心テーマです。2~8節は、空しい偶像との比較において、ご自分の思いのままにことを行われる天におられる全能の神が、私たちの神であり、その恵みとまことのゆえに、詩人は、御名に栄光を帰し、主をほめたたえ、ハレルヤと賛美の声をあげています。
「主に信頼せよ」という言葉が、9~11節に三回出て来まると申し上げましたが、「主に信頼せよ」との言葉に対応して「主こそ助け、また盾」という言葉がこれまた三回歌われています。出エジプトという主の大いなる救いの御業を覚えつつ、過越の食事を行う中で、この「主を信頼せよ」ということを心に刻んであるのです。そしてそこに「主からの祝福」があることを歌っているのです。
詩篇115篇の「主に信頼せよ」とこれに対応する「主こそ助け、また盾」、そして「祝福してくださる」という言葉を主イエスは、どのように心に留められたのでしょう。詩篇115篇17~18節に「死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者たちも。しかし私たちは主をほめたたえる」とありますが、詩人が、主の助けを覚え、死とよみからの救いを確信し、主を賛美し、御名に栄光を帰しているごとく、主イエスも、苦難の時に向かおうとする中で、父なる神に全幅の信頼を置いておられました。
ですから、主イエスも、この詩篇115篇の作者と同じように、父なる神の助けの御手を覚え、死とよみからの救いを確信し、主を賛美し、御名に栄光を帰しているのです。
ヨハネの福音書16章33節、17章1節、5節、21節をご覧ください。主イエスは、苦難の時を前にして、栄光を現してください」「一つにしてください」と祈っておられます。ここに、主イエスの父なる神への信頼と祝福の確信を見ることが出来ます。
二、死と涙と苦しみの中での信頼 (詩篇116篇1~12節)
主イエスと弟子たちが、最後の晩餐席で歌っておられるという状況を考慮しつつ、詩篇116篇を味わいたいと思います。
詩篇116篇には、「死の綱」「よみの恐怖」「死」が目につきます。
詩人は、まさに「死とよみの恐怖」におののき、苦しみと悲しみ、涙で目が曇るような経験の中で、なお信仰に立ち、「情け深く、あわれみ深い」主に目を向けて、主を呼び求めています。「死とよみの恐怖」におののき、恐れうろたえ、苦しみ、悲しみ、涙する経験の中で、詩人は主に信頼し、「私は生ける者の地で、主の御前を歩みます」(9節)と復活の信仰に立って告白と決断を言い表しています。
三、救いの杯を掲げて(詩篇116篇13~19節)
さらに、詩篇116篇13~19節を味わいたいと思います。大いなる苦しみと涙と死の綱、よみの恐怖が襲って来るなかで、詩人は神の守りと救いを確信し、「救いの杯を掲げ」て主を賛美しています。
詩篇116篇15節の「主の聖徒の死は、主の目に尊い」というみことばは、教会で行われる葬儀の祈りにおいて、引用されて用いられるみことばです。「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」とのみことばを、主イエスは、ご自分の死も含め、それに続く弟子たちの殉教の死をも覚え、「父なる神は、これを決して無駄にはなさらない」というような思いで歌われたと思います。
14節と18節に、「私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で」と繰り返されています。どんな誓いを果たすというのでしょう。
116篇の詩人は、苦しみと涙と死の綱、よみの恐怖から救い出してくださる主を信じ、信仰に立って、「感謝のいけにえを献げ、主のみ名を呼び求めます」と誓っています。
そして、この「私は自分の誓いを主に果たします」という言葉は、主イエスの耳にどのように響いたでしょう。それは、主イエスが、多くの人の罪の赦しのためにご自分のいのちを十字架の上で注ぎ出そうとしておられる事へとその思いが向けられたのではないでしょうか。
主イエスは、父なる神の守りと救いの御業の成就を確信して、「自分の誓いを主に果たします」という決意をもって「私は救いの杯を掲げ、主のみ名を呼び求めます」と歌われたと思います。
最後に、マタイの福音書26章27~28節をご覧ください。主イエスは、十字架という苦き杯を飲んでくださり、私たちのために、「罪の赦しのために流される、契約の血」としての「救いの杯を掲げ」、「この杯から飲め」と仰って下さっています。
(結論)この救いと罪の赦しの恵みの杯を、感謝を持って頂こうではありませんか。