礼拝説教「身を低くして天地をご覧になる神」2023年3月19日
聖書 詩篇113篇1~9節、詩篇114篇1~8節
(序)113篇~118篇は、過越の食事の時に歌われました。
113篇と114篇は、メインの食事の前に歌われていましたので、本日は、113篇と114篇を同時に見たいと思います。
過越の食事は、まず家長が申命記16章1~8節を読みます。続いて
第1の杯が回され、手を洗い、「父なる神様。私たちをあわれみエジプトの奴隷のくびきより救い出してくださったことを感謝します。罪のごとく膨れ広がるパン種をことごとく家から除き、子羊を屠りました。今手をきよめ、ひたすらあなたに祈る私たちに、過越しによって贖いをなしてください。アーメン」と祈ります。そして、ハロセス(果物とぶどう酒を混ぜたクリーム状のドレシング)をつけた苦菜、種入れぬパンを食べる。少年が、種入れぬパンや苦菜を食べる理由、過越しの由来を尋ね、家長が答えます。
第2の杯、子羊の肉とハロセスつき苦菜、種入れにパンを食べ、半分残します。家長が詩篇113篇と114篇を歌い、一同が詩篇118篇を交読します。残りのパンを食べます。「主なる神よ。私たちをエジプトより導き出し、聖なる選民とされた主なる神よ。子羊の血によって私たちを贖い、聖なるものとしてあなたに仕え、とこしえにあなたの民としてください。アーメン」と祈ります。
第3杯目の杯を飲み、残りの食べ物をすべて食べます。
第4杯目の杯を用意し、感謝し、4杯目の杯を飲み干し、詩篇115篇、116篇を歌います。
十字架にかかられる前の夜、主イエスは、この過越の食事を弟子たちとされた事を覚えつつ、本日は、詩篇113篇6節、7節と詩篇114篇7節を見て行きたいと思います。
一、身を低くして天地をご覧になる神(113篇6節)
113篇は、「主の御名をほめたたえよ」と三回繰り返され、主が至高のお方であることを賛美しています。そして、そのような高御座に座しておられる方が、「身を低くして、天と地をご覧になる」(6節)というのです。
主は私たちが近づけないほど高くあられますが、身をかがめ、私たちを愛とあわれみをもって顧みてくださるのです。イザヤ書57章15節をご覧ください。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方」が、「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである」と言われるのです。私たの霊を生かし、心を生かすために下って来てくださるお方です。まさにそれが、主イエス様によってなされたのです。
二、貧しき者を引き上げられる神(113篇7節)
主なる神は、ただご覧になるだけではありません。降って来て、私たちを救い出し、引き上げて砕くださるのです。7節に「主は弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ…」とあるように、身を低くして、私たちをご覧いなる神は、私たちの所に降りて来られ、私たちを塵から、灰捨て場のあくたの中から、引き上げ救い出してくださるのです。
ピリピ人への手紙2章6~8節をご覧ください。ここに主イエスの七段のへりくだりがあると言われます。主は、私たちを贖い、救うために、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人となり、身を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われたのです。
三、主の御前に身もだえせよ(114篇7節)
114篇7節に参りましょう。1節に「イスラエルがエジプトから、…出て来たとき」とありますが、70人訳ギリシャ語聖書では、「エクソドス」という言葉が用いられています。この言葉は、ルカの福音書9章31節で「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのである」とある箇所の「最期」と訳されている所に用いられています。
主イエスと弟子たちは、過越の食事の席で、詩篇113篇とこの114篇を歌っています。まさに十字架を目前にして、主イエスはどのような思いでこの詩篇を歌ったのでしょうか。意味深いものをお感じになったと思います。主イエスは、十字架のご苦難をとおして、「新しいエクソドス」、「新しい出エジプト」「新しい契約」の成就することを思い、過越の食事の新しいい意味付けをなさり、聖餐を制定なさったのです。ルカの福音書22章22~24節をご覧ください。その時、弟子たちは、誰が主を裏切るのか、また誰が一番偉いのかを議論していたのです。何か詩篇の歌は、彼らの激しく論じ合う言葉にかき消されたようです。
そこで、詩篇114篇7節をご覧ください。「地よ。主の御前におののけ」他の訳では「地よ。主の御前に身もだえせよ」とあります。何か「弟子たちよ。主の御前におののけ。身もだえせよ」と言われているようです。
この言葉は、また、今読んでいる私たちに対しても、呼びかけているようです。「人よ。主の御前におののけ、身もだえせよ。」
(結論)身を低くして、私たちをご覧になり、降って来て、私たちのために十字架の苦しみをお受けくださった主に、身もだえするがごとくに、おののきつつ、心からの感謝をささげましょう。