礼拝説教「主は私の羊飼い」2022年8月28日
聖書 詩篇23篇1~6節
(序)詩篇23篇は、クリスチャンなら誰でも知っており、暗唱さえしている詩です。詩篇23篇は、子どもの心にもスーと入っていく箇所であると共に、長年信仰生活を送って来た方にとっても、深い霊的な意味を汲み取ることのできる詩です。この朝、三つの事を申し上げたいと思います。
一、満ち溢れる豊かさ
第一に申し上げたいのは、「満ち溢れる豊かさ」ということです。1~2節に、主なる神によって与えられる「満ち溢れる豊かさ」が歌われています。
この詩篇を書いたダビデは、少年時代羊飼いでした。ですから、羊飼いが羊をどれ程大切にし、愛情を持って養うかを、ダビデは、身を持って知っていました。ですから彼は、神の豊かな恵みを「主は私の羊飼い」と歌ったのです。 1節にある「主」という言葉は、特別に深い意味を持った言葉であり、神の御名です。聖書の中に、6,823回も用いられている非常に重要な御名です。この御名は、ヘブル語の4つの文字からなっていますので、「聖四文字」と呼んでいます。それは、出エジプト記3章14節の「『わたしは、ある』という者である」という言葉から由来していると言われています。
この御名は、実際のところどのように発音するべきなのか分かっていませんが、おそらく「ヤハウェ」と呼ぶであろうと言われています。厳密なことを言いますと、聖書の中で「私の神(エロ
ヒム)」とは言っていますが、「『私のヤハウェ』とは言わなかった」というのです。なぜなら、ヤハウェ自体が「私の神」という事を意味しているからであり、また、「生ける神(エロヒム)」とは言うが、「生けるヤハウェ」とは言わなかった。生きてないヤハウェなど考えられなかったからだというのです。「ヤハウェ」とは、義と聖と愛の神です。生ける人格、変わらない愛と哀れみと契約という確かな約束、それらすべてが「ヤハウェ」という御名の周りに集まっているのです。このようなお方が「私の羊飼い」となってくださるのです。ですから「私は乏しいことがありません」と言うのです。主と私たちの関係が、羊飼いと羊の関係になぞらえて語られているのです。羊は弱い動物です。羊飼いなくして、生きることが出来ません。しかし、羊飼いに導かれる時に、羊は豊かに養われます。ですから「私は、乏しいことがありません」と言い切っているのです。これは、よく竹田羔一先生もよく強調しておられましたが、ヘブル語の聖書では、「乏しいことがあるはずがない」と非常に強調された言い回しがされています。
次に2節の「緑の牧場に伏させ」ですが、これは今萌え出たばかりの草で覆われた牧場に伏させてくださることを意味しています。ロザーハムという人は、In pastures of tender grass (「柔らかな草の牧場に」)と訳しています。同じく2節に「いこいのみぎわに伴われます」とあります。水もまた羊にとって必要なものです。羊飼いが羊をそこに憩わせるように、主なる神様は、私たちを導いて、完全な安息を与えてくださるのです。何という豊かな養いでしょう。ヨハネの福音書10章11~15節をご覧ください。主イエスは、「わたしは良い牧者です」と語っておられます。良い牧者である主イエス様は、私たちにいのちを与えるために、十字架の上で死んで、三日目によみがえってくださいました。そして私たち一人びとりを誰よりも知っていてくださり、導き守ってくださるのです。
二、動かされることのない安息
第2に申し上げたいのは、「動かされることのない安息」です。3節に「主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます」とあります。これは、心の奥底である「たましい」における解決を歌っています。言い換えると「罪が赦されて義とされる」という恵みです。どんなに恵まれ、どんなに祝福されても、私たちの心の奥底の一点が解決していないならば、本当の安息はありません。しかし、私たちが、主イエス様に「私のたましいを生かして下さい。私の罪をおゆるし下さい」と祈るなら、主は直ちに私たちの罪を赦し、私たちを生かし、私たちを義としてくださるのです。そして、4節にあるように「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません」と言うことができるのです。主が共にいてくださるから、私たちは動かされることはないのです。主と共に安息しましょう。主の上に安息しましょう。そして主の中に安息しましょう。ダビデと共に「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがとともにおられますから」と歌いましょう。
4節の終わりに「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」とあります。「むち」は、先に鉄の金具がついた、野獣を追い払うための道具です。「杖」は、羊を数えて、迷わないようにするための道具です。羊飼いは、暗い谷間を行く時に、岩場を杖でコツコツと叩きながら「わたしはここにいるよ」と羊に知らせるのです。それによって、羊は安心して暗い谷間をも通過することが出来るのです。
ジョン・バンヤンの「天路歴程」の中に、死の陰の谷を通過する場面があります。谷の真ん中を天の都に通じる狭い道があり、右には深い溝があり、左には恐ろしい泥沼があります。途中には、地獄への口が開いています。クリスチャンは、祈りの一本槍を頼りに、進んでゆきます。谷は非常に暗く、足をどこに下ろせばよいか分からないほどです。悪魔が迫ってきます。その時、「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがとともにおられますから」と言う声をクリスチャンは聞いて、心励まされ、天の都への道を進んで行く、というお話しです。
主がともにいて、私たちを守り導いてくださることを信じて「動かされることのない安息」をいつもいただきましょう。
三、圧倒的な勝利
三番目のことは、「圧倒的な勝利」ということです。5節をご覧ください。「私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています」とあります。「敵をよそに」とは、何と言う大胆なことでしょう。本当に勝利をしているから、そのような恵みに与っているのです。5分5分、どちらが勝つか分からないというのでは、うかうか食事などしておれません。ところが、「敵をよそに、私の前に食卓を整え」と言うのです。「大丈夫、恐れないで、楽しみなさい。喜びなさい」と言うのです。頭には香油が注がれ、杯はあふれています。勝利は確定的、決定的、圧倒的だと言うのです。
6節に、「いつくしみと惠が、私を追って来るでしょう」とあります。「いつくしみと恵み」が、2匹の牧羊犬のように、私たちを追って来て導いてくれるのです。最終ゴールは、主の家に住み、主を賛美礼拝することです。「住む」と訳されている言葉は、「住む」という意味と、「帰る」という意味の言葉から来ていると言われています。ですから、他の訳では、「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」と訳されています。「私はいつまでも、主の家に住まいます」と明確な意志をもって信仰を言い表しているのです。
(結論)主ご自身が私たちの羊飼いとなって、私たちを導き、恵みに満ちた祝福を与えてくださるのです。主に信頼し、従ってまいりましょう。