礼拝説教「十字架上の第三言」2022年4月10日
聖書 ヨハネの福音書19章17~30節
(序)本日は、ヨハネの福音書に記された十字架上での主イエスの第三言を中心にお話し致します。
一、深い愛と配慮の言葉
主イエスは、ユダヤ人たちに引き渡され、自ら十字架を背負い、エルサレム郊外にあるゴルゴタ(「どくろ」)というところに向けて出て行かれました。ゴルゴタに着くと、彼らは、主イエスを真ん中の十字架につけ、その左右に強盗たちをつけました。ピラトは、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と罪状書を書いて主イエスの十字架の上に掲げさせました。ヘブル語はユダヤ人のため、ギリシア語は一般の共通語、ラテン語は官邸用語でした。当時の世界のすべての人々が、この罪状書を理解しました。
兵士たちは、主イエスを十字架につけてから、主イエスの着物を4つに分け、それぞれが取りました。しかし、下着は、一つに織った縫い目なしのものであったので、くじ引きにしたのです。それは、詩篇22篇18節の「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」という預言の成就でした。
弟子たちは、捕縛された主イエスを見捨てて逃げましたが、ガリラヤから主イエスについてきた大勢の女性たちは、遠くから十字架にかかられた主イエスの様子をうかがっていました(マタイの福音書27章55節)。イエスの母マリアと母の姉妹(ゼベダイ子すなわちヨハネとヤコブの母サロメ)、クロパの妻マリアとマグダラのマリアの四人は、主イエスの十字架の御側に近づき、そこにたたずんでいました。
主イエスは、十字架の上から、母マリアに声をかけ、「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われ、愛弟子ヨハネにも「御覧なさい。あなたの母です」と声をかけられました。主イエスは、十字架の苦しみの中でも、母マリアのことを気遣い、ヨハネに母を託したのでした。この時から、ヨハネは主イエスの母マリアを引き取りました。主イエスが、十字架の苦しみの中でも、母マリアを気遣ったこの第3言のみことばの中に、主の深い愛とあわれみ、御配慮のほどを知ることができます。
二、悲しみと病を知ってくださった方
イザヤ書53章3~6節をご覧ください。このイザヤ書53章は、「苦難のしもべの歌」と呼ばれる箇所であり、主イエスの十字架でのご苦難を預言している箇所です。読んで頂いた3節には「悲しみの人で、病を知っていた」とあります。主イエスは、悲しみと病を、身をもって体験してくださったのです。それ以上に、主イエスは、私たちの病を負い、痛みを担ってくださいました。4節には「私たちの病を負い、…私たちの痛みを担った」とあります。
さらに、5節では、「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のゆえに砕かれたのだ」というのです。この「刺され」と訳された言葉と「砕かれた」という言葉はヘブル語聖書では、非常に強い強意形で書かれています。「刺し通され…粉々に砕かれた」というほどの意味です。そして、イザヤ書53章は、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」と告げています。主イエスは、痛みや悩みを知ってくださり、私たちの身代わりとなって、刺し通され…粉々に砕かれてくださったのです。その懲らしめと打ち傷が、私たちに平安と癒しを与えてくださったのです。
三、私たちの弱さに同情してくださる方
最後に、へブル人への手紙4章15~16節をご覧ください。永遠の大祭司である主イエスは、私たちと同じような試みにあわれたので、「私たちの弱さに同情できない方ではありません」というのです。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。
永遠の大祭司である主イエスは、私たちの弱さや痛み、悲しみや病を理解し、私たちに助けの御手を差し伸べていてくださいます。ですから、私たちは、信仰をもって大胆に恵みの御座に近づかせていただこうではありませんか。主は、常に私たちのことを気にかけ、心配し、配慮ある御手を伸ばしていてくださるのです。
(結論)すでに天に召された人々も、この主イエスの深い愛とあわれみ、御配慮に触れたのです。私たちも、この朝、十字架の上で示された、主イエスの深い愛とあわれみ、御配慮のほどを知って、信仰をもって大胆に恵みの御座に近づく者となりましょう。