礼拝説教「確かな約束のしるし」 2022年1月9日
聖書 ヨシュア記2章1~24節
(序)本日は、ラハブの信仰について見たいと思います。
一、信仰と神の摂理
9~11節を見ると、彼女は、既にイエラエルがどの様にしてエジプトを出、近隣諸国と戦ったかについて、またイスラエルの神がいかなる方かについて知っていた事がわかります。しかし、単に知っていたのみではありませんでした。知っているのみでは信仰が働きません。エリコの他の人々も知っていたのです。しかし、エリコの人々は、彼女のような信仰を働かせませんでした。むしろ恐れて、勇気を失っています。ところが、ラハブは、知って、「この神以外に頼るべき方はない」と信仰を働かせたのです。私は、そこにラハブの霊的洞察力と信仰があったと思います。そしてこの洞察力たるや彼女自身の能力というよりは、神の恩寵のゆえであると言ってよいでしょう。
エペソ人への手紙1章17~19節をご覧ください。ここにパウロの祈りを見ます。パウロは、エペソ教会の人々が、知恵と啓示の霊を与えられ、受け継ぐべきものがどれほど栄光に富んだものであるかを認め、神の大能の力によって信じる者に働く神のすぐれた力がどれほど偉大なものかを知るに至るようにと祈っています。すなわち、恩寵のゆえに、知恵と啓示の霊を与えられて、始めて目が開かれて、信じ、神の大能の力を体験する者となる事が出来るのです。
ヘブル人への手紙11章31節をもご覧ください。「遊女ラハブは、探りにきたものたちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった」(ヘブル11章31節 )と証しされています。彼女は、信仰によって自らが救われただけでない。彼女の信仰のゆえに彼女の一家が救われ、彼女は、異邦人であるのにイスラエルの民に加えられています。いいえ、それだけではありません。マタイの福音書1章5節を見ると、ラハブはボアズを生み、オベデ、エッサイと進んで、ダビデが生まれ、このダビデの子孫として主イエスが生まれるのです。ここにアハブの信仰と共に深い神の摂理の御手すなわち神のご計画を見ることが出来るのです。
二、確かな約束のしるし
12~13節をご覧ください。ラハブは、「今、主にかけて私に誓ってください。…私に確かなしるしをください。…」としきりに求めています。彼女は、心のうちに主なる神に対する霊的渇望を覚えたのです。しかも、自ら一人の救いでない、自らと自らの家族の救いを切に願い、その「確かなしるし」を求めています。私たちも、この霊的渇望と信仰を持つ者となりたいと思います。ラハブは、やって来た斥候をかくまいましたが、単なる偶然ではなかったと思います。彼女は祈っていたに相違ありません。そして、祈りに祈った結果、ついにチャンスの時が来たのです。そして、時を失わず、事を起すことが出来たのです。チャンスを生かしたのです。私たちも、使徒行伝16章25節に、「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」とみことばにあるように、まず、切に祈り、また信仰の先取りをさせて頂いて、主に賛美をささげましょう。信仰をもって祈る時、神様は、必ず時を備え導いて下さいます。
三、生きて働く信仰(17~21)
危険をあえて冒して、斥候をかくまい、安全に逃れさせたのは、彼女の生きて働く信仰を示しています。ヤコブ書2章25節に、「同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送りだしたので、その行いによって義と認められたではありませんか」(ヤコブ書2章25節)とあります。ここに信仰というものの能動性が示されています。信仰とは、単なる受け身ではありません。積極的な行動への決断です。救いの根拠という意味において、それは、恵みにより、信仰によるのです。決して行いではありません。しかし、ここに言われているのは、その救いの恵みを受けとるべく決断し、信仰による行動を起こす必要についてです。ヤコブ書2章21~23節に、アブラハムの例が引かれていますが、創世記12章1節を見ると、アブラハムは、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12章1節)との御声に、信仰の応答を行い、決断をしてみことばに従ったのです。ゆえに信仰の父と呼ばれる人になったのです。
同様にラハブも、信仰の決断をしたのです。イスラエルの神に、自らと自らの家族とを委ねたのです。その信仰の結果、信仰に対する「確かなしるし」が与えられました。ここでは、それが赤い紐だったわけです。赤き紐の結ばれた家のうちに止まる者は救いにあずかるとの保証を頂いたのです。ラハブは、しっかりとその紐を窓に結び、救いの時を待ったのです。そしてついにその日はやって来ました。ヨシュア記6章22節には、彼女と彼女に属するすべての者物が救われたことが記されています。
私たちにとって、救いの「確かなしるし」とは何でしょう。それは、主イエスの十字架と復活の事実です。これこそが、私たちの救いの「確かなしるし」です。
最後に、コリント人への手紙第Ⅰ1章18節とペテロの手紙第Ⅰ1章3節をご覧ください。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(コリント人への手紙第Ⅰ1章18節)とあり、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」(ペテロの手紙第Ⅰ1章3節)とあります。十字架と復活こそは、私たちの救いに関する「確かなしるし」なのです。
(結論)十字架と復活という私たちに与えられた神の「確かなしるし」に目を留め、生きて働く信仰を働かせましょう。