年末感謝礼拝説教「力に満ちておられる神」2021年12月26日
聖書 詩篇93篇1~5節
(序)本日は、この年最後の主日です。この一年の数々の恵みを感謝する礼拝として御前にささげたいと思います。詩篇93篇はわずか5節の短い詩篇ですが、主なる神の力と威光に満ちておられる様子がいかんなく歌われています。バビロン捕囚からの帰還の出来事に際して歌われたであろうと言われています。
一、威光と力をまとっておられる王なる神 1~2節
1節に「主こそ王です」とあります。主なる神は、天地を創造し、これを統べ治めておられる王です。96篇、97篇、98篇、99篇と「主が王である」と連続して歌われています。そして、主なる神が王の王として、「威光と力」をまとっておられる事が歌われています。
エズラ記6章4~15節、7章27~28節をご覧ください。そこには、
主なる神の御手により、ペルシャのキュロスによって、イスラエルの民は帰還を許され、ペルシャのダレイオス王の6年にエルサレムの神殿を再建し、久しぶりに過越しの祭りを行ったことが記されています。特に「神の御手が彼の上にあったので」(エズラ記7:6)「神の御手が私の上にあったので」(エズラ記7:28)と主なる神の御手が彼らを助け導いたことが記されています。まさに、エズラやハガイなどは、この「威光と力をまとっておられる神」の力強い御手を体験していたのです。
詩篇93篇1節後半に「まことに、世界は堅く据えられ揺るぎません」とあります。この被造世界がどの様に混乱と暗闇に満ちたとしても、天地を創造された全能の神は、この世界の軸をしっかりと支えていて下さるのです。
2節に「あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、あなたはとこしえからおられます」とあります。神のみ住まいこそは、この世界の存在の基礎であり、軸なのです。そして、それは、出エジプト記15章8節に「主はとこしえまでも統べ治められる」と預言されたことの成就なのです。
二、大水の轟を凌駕する主の御力 3~4節
しかし、時に大変な嵐が襲う時があります。3を見ると、「轟音を、川はとどろかせています。激しい響きを、川はとどろかせています」とあります。ここで述べられている「川とか大水」は、神に反抗する悪しき勢力を意味しています。主に逆らうものがいくら暴れ狂っても、主の御力は、それら大水の轟や海の波のまさっているのです。4節に、「主は力に満ちておられます」とあるごとくです。
詩篇18篇16節をご覧ください。ダビデは、「主は、いと高き所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から私を引き上げられました」と主の御手の助けを感謝しています。エペソ人への手紙2章1~10節をご覧ください。小島伊助先生は、ここについて「引き上げる救い」と言われました。まさに、この世の流れに流され、空中の権威を持つ支配者である悪魔にそそのかされ、大水に飲み込まれているような私たちの存在でしたが、神のあわれみのゆえに、キリストともに生かしていただき、共によみがえらせ、天上に座らせ、良い行いをする神の作品として造り変えられたのです。
三、確かな主の証し 5節
「主のあかし」とは、律法を意味しており、「主のみことば」と言い換えても良いでしょう。主なる神によって語られた「主のみことば」「主の約束のみことば」は、確実で確かだというのです。そして、「聖なること」が神の家にはふさわしいというのです。「主の約束のみことば」の上に立って、その確かなことを証しする使命を与えられた神の宮または神の教会は、つねに「聖であること」が求められます。神の宮または神の教会にとって、「聖であること」がふさわしいのであり、主はそれを望んでおられ、またそうして下さるのです。
(結論)私たちも自らの汚れと不信仰を取り除き、主に「聖なるもの」とならせていただき、「威光と力に満ちておられる王なる神」をほめたたえ、その「確かなみことば」を証ししましょう。