礼拝説教「マリアの賛歌」2021年12月5日 アドベント第2週
聖書 ルカの福音書1章46~55節
(序)本日は、「マグニフィカート(マリアの賛歌)」と呼ばれる賛美を通してアドベントのメッセージを取り次ぐように導かれています。
一、心から喜びに満ちてささげる賛美
39~46節を見ると、マリアの賛歌は、マリアがはるばる100キロ以上の道を越えて(ガリラヤからユダの山地まで100キロ以上)、エリサベツを訪問し、エリサベツが聖霊に満たされて「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」とマリアを祝福した時に、歌われた賛美です。
マリアは、「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をほめたたえます」(46~47節)と主に向い心一杯の感謝を込めて賛美しています。「私のたましい」とは、人間のあらゆる感情をつかさどる感情の座であり、人間の存在の最も深い部分です。
また47節には「私の霊」とありますが、「霊」は、人に用いられる場合、その人の最も奥深い内面を表わし、人間の知性、意志、良心、感情など人間の諸機能を総称的に表しています。要するに、マリアは、たましいと霊の深みから、彼女の全存在を傾けて主を賛美しているのです。
46節の「あがめる」とは、大きく拡大するという意味のことばです。同じ言葉はピリピ人への手紙1章20節にパウロが「私の身によってキリストがあがめられることです」と言っている所に用いられています。47節の「たたえます」とは、「喜ぶ」という意味のことばから派生した言葉が用いられています。
すなわち、マリアは彼女の全身全霊全存在をもって主なる神をあがめ、喜びに満ちて賛美しているのです。
私たちも、マリアのように、心から全存在を傾け、喜びに満ちて、主を賛美いたしましょう。
二、主の聖名を覚えての賛美
47節に「私の救い主である神」とあります。これは旧約聖書の多く用いられている「わが救いの神」という表現を反映しています。詩篇に多く出て来ますが、ハバクク書3章18節には、「しかし、私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう」とあります。ハバククという人は、大変困難な時に生きた預言者です。見えるところでは、回復や解決が見いだせないというような状況で、彼は、信仰に立って、「私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう」と言っているのです。
48節において、マリアは、主が自分のような貧しく卑しい者に目を留め、人々が幸いな者と呼ぶような祝福を与えて下さったと感謝し、「力ある方が、私に大きなことをして下さったからです」(49節)と賛美の理由を述べています。
さらに49~50節において、マリアは、主の聖なる御名と主のあわれみを覚えて賛美しています。
「その御名が聖なるもの」であるとは、主の御力と関係があります。主の御名には、主の御権威と御力がその背後に言い表されています。どんな困難も、どんな戦いも、どんな問題も、主の御名による御業の前に、全く何の障害にもなりません。その聖なる御名をマリアは知っており、その聖なる御名を賛美しているのです。
三、主の力強い御手とあわれみを覚えての賛美
51~53節において、マリアは、主の力強い御腕を覚えて賛美しています。
51~52節に、「主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き下ろし、低い者を高く引き上げられました」と歌っています。
主なる神は、力強い御腕をもって、高ぶり奢る者を、その権力からいつでも引き下ろしなさいます。また、どんな弱き者をも、主は、引き上げてくださいます。その事をマリアは、知っており、また信じていました。そして、主は「飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました」(53節)と歌っています。
ここには、「おごり高ぶる者」「「権力ある者」「富んでいる者」が、「主をかしこみ恐れる者」「卑しい者」「飢えている者」が対照的に対比されています。神の裁きは、「おごり高ぶる者」「「権力ある者」「富んでいる者」に及び、その御腕で力を振るわれます。
他方「主をかしこみ恐れる者」「卑しい者」「飢えている者」には、あわれみが世々限りなく及ぶというのです。信仰をもって主を見上げるマリアには、「主の聖なる御名と力ある御腕とそのあわれみ」がはっきりと見えていたのです。
54~55節において、「主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖たちに語られたとおりに、アブラハムとその子孫に対するあわれみを、いつまでも忘れずに」と、マリアは主のあわれみと真実を歌っています。主は、あわれみをお忘れにならず、アブラハムとその子孫に約束なさった事を、変わらず成就してくださる方であることを讃美しているのです。ここに、神の契約の確かさ、神のご計画の壮大さを思わされます。神には、あわれみと祝福と約束の確かさがあることを、マリアは、信じていたのです。マリアは、主が、父祖アブラハムとその子孫に対する約束を忘れないで、必ずその通りにして下さると信じていました。
私たちは、何かに躓き、暗黒に閉ざされるとすぐさま、心弱ってしまいます。しかし、常に主の御力と主のあわれみ、主のご真実を覚え、信仰に堅く立って、主に感謝の賛美をささげましょう。
(結論)私たちも、聖なる御名と力ある御腕とあわれみとご真実を覚え、常に主を讃美する者となりましょう。