礼拝説教 「なつめ椰子の木のように」2021年11月21日(日)
聖書 詩篇92篇10~15節
(序)本日は、詩篇92篇10~15節を見て参りたいと思います。特に12節を中心としてお話し致します。詩篇92篇12節に「正しい者はなつめ椰子の木のように栄、レバノンの香柏のように育ちます」とあります。私たちが、天に向けて真っすぐに伸びる「なつめ椰子の木」のように、教会で、家庭で、職場で、地域で、筋の通った信仰と神の愛に満たされた包容力をもって、主イエスを証しするクリスチャンとして前進したいと思います。
- 潤いを示す「なつめ椰子の木」
イスラエルの民は、出エジプトして、水の一滴もない荒野を旅した時、エリムに着いたことが、出エジプト15章27節に出て来ます。そこには、12の泉と70本の「なつめ椰子の木」があったとあります。幹が18~25メートルにもなる「なつめ椰子の木」は、何もない砂漠で、遠くからでも旅人の目にとまったでしょう。旅人は、「なつめ椰子の木」を目当てにオアシスにたどり着き、息を吹き返したのです。
イスラエルの民は、そこで潤いを頂き、その水のほとりで宿営したのです。
イザヤ書58章11節をご覧ください。ここには敬虔な生き方をする者に対する主の約束が記されています。敬虔な者は、豊かな祝福と恵みに満たされ、霊的・信仰的・社会的・個人的・教会的にバランスの取れた健全さを持つ者とされ、潤された園のようにされるとあります。すなわち、愛と恵みに満たされ、主を信じる敬虔な者が、そこにいるだけで、その場所が潤うというような人にされるというのです。
私たちも、主のみことばによって、日々に心が潤され、他の人々の心をも潤すことの出来る者となりたいものです。
- 真っ直ぐな「なつめ椰子の木」
雅歌書7章7節に、「あなたの背たけはなつめ椰子の木のよう…」とあります。口語訳では、「あなたは、なつめ椰子の木のように威厳があり…」とありました。くねくねと曲がった「なつめ椰子の木」は想像できません。ただ真っすぐに、天に伸びた「なつめ椰子の木」は、日本人的美的感覚からすると、面白みがないかもしれません。しかし、そこには、堂々とした威厳さえ感じることが出来ます。
テモテへの手紙第Ⅱ4章7~8節をご覧ください。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」とあります。ここに真っすぐに伸びた「なつめ椰子の木」のようなパウロの真実な信仰の姿勢を見ることができます。
私たちも、スーと真っすぐに伸びた「なつめ椰子の木」のように、世と妥協しないで、ひたすら主を信じ、主に仕える真っすぐで真実な信仰の者となりたいと思います。
- 豊かな実を実らせる「なつめ椰子の木」
「なつめ椰子の木」は、十分な実をつけるには、40年を要するそうです。しかし、実がなるとひと房に1000個の実をつけ、1本に6~7房実がなるというのです。しかも、」150年間も実を実らせ続けるというのです。「桃栗3年、柿8年、柚子は9年でなりかかる」と言われますが、それをはるかにしのぐ「なつめ椰子の木」のスケールです。家族親族、同じ職場、近隣の人々への福音のみことばの証しを、祈りつつ行い、豊かな結実を見させていただく、クリスチャンとならせていただきましょう。
どの教会にも、信仰に満ちた「なつめ椰子の木」のような存在の方がおられ、家族親族ぐるみで信仰を継承されています。私たちも、代々信仰を受け継ぎ、多くの実を実らせる「なつめ椰子の木」のような存在とならせていただきましょう。
最後に、ヨハネの福音書15章1~5節をご覧ください。主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。…わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。…人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」と言われます。実を結ぶ秘訣は、枝がしっかりとぶどうの幹につながっていることです。
<例話>真のブドウの木:幹から離れた枝:ヨハネ15:4~6
枝が幹からはなれては、実を結ぶ事ができません。
私の叔父は、キリストを信じる前は煙草をつくっていましたが、クリスチャンになってから、職業変えをし、ブドウをつくり始めました。初め随分苦労した様です。近所に葡萄作りの名人がいましてその人に教わりながら始めました。叔父さん曰く、『名人になると凄い。遠くから畑を見ただけでどこに虫が巣くっているか分かる』と。素人が見るとつながっているようであるが、しかし、名人の目はごまかせません。ピタッと当ててしまうというのです。
主は、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃいます。主につながり、主にとどまらせていただこうではありませんか。
4節の「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」とあるところ、文語では「我におれ、さらば我汝らにおらん」とあり、英訳では、Abide in me,and I in youとあります。モファット訳ではcontinue in meと訳しています。そこには、間断なきキリストとの生ける交わりが述べられています。実に生命的なつながりです。これなくして、キリスト者はやっていけないし、実を結ぶことはできません。キリストとつながっていてこそ、実を豊かに結ぶことができるのです。
(結論)「なつめ椰子の木」のように、人々を潤す存在、ひたすら主を信じ、主に仕える真っすぐで真実な信仰者、主につながり、主にとどまって、豊かな実を結ぶ者となりましょう。