礼拝説教「義とあわれみに満ちた神」2021年8月15日
聖書 詩篇82篇1~8節
(序)本日は、詩篇82篇よりメッセージを導かれています。さて、この82篇は、すべての者のさばき主である神の正しいさばきを求める詩です。裁判官は、誰に対しても中立で、真理を追究しなければなりません。申命記1章17節に「裁判で人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである」とある通りです。
一、神の会議の中に立たれる神
さて、詩篇82篇は、1節と6節に出て来る「神々」をどのように理解するかによって、その理解が変わって来ます。大きく二つの理解があります。一つは、この「神々」とは、御使いなどの天的存在と考えるものであり、二つ目は、神の信任を得た地上の為政者、統治者などを示していると考えるものです。どちらの説にも一理があり、どちらかに定めることは非常に難しい箇所です。第1の説とするなら、1節の「神の会議」とは、天上の会議のことであり、ヨブ記において、サタンが神の会議で、ヨブを訴える場面が描かれています。第2の説に関しては、ヨハネの福音書10章34節において、主イエスが、ご自分が父なる神と一つであることを論じておられる箇所で、この82篇6節を引用して、「神のことばを受けた人々」を「神々」に当てはめておられます。
そこで、この朝、私たちは、この地上の不正な為政者や統治者、指導者たちに、主なる神が、さばきを下していると見て、この詩篇を理解して行きたいと思います。
1節、「神は、神の会議の中に立ち、神々のただ中でさばきを下す。」
為政者や統治者、検察官、裁判官などは、人を取り調べ、これに裁きの判決を下します。しかし、人をさばく者は、自分もまた、さばかれる者であるということを覚える必要があります。最後の審判における最終の審判者は、神ご自身なのです。
二、不正な裁判官の終極
2~7節に、不正な裁きを行う者に対する断罪と彼らに対するさばきの宣告が、神ご自身のことばによってなされています。
2節には、彼らが悪しき者の味方をし、偏った不正なさばきを行っていることが指摘されています。悪しき者に加担するのではなく、むしろ3節に「弱い者とみなしごのためにさばき、苦しむ者と乏しい者の正しさを認めよ」(3節)とあります。すなわち、「弱い者、みなしご、苦しむ者、乏しい者の権利を認めなさい」というのです。
5節、 不義な裁判官は、神を認めず、真理を知らず、また悟らない、というのです。彼らは、暗闇の中を歩き回る者にすぎず、何が真理であり、何が正しいかを知らないというのです。
それゆえに、「地の基は、ことごとく揺らいでいる」のです。
真理の上に立って、正しいさばきを行うべき者が、真理を曲げているならば、社会の土台、社会の基盤は崩れ、揺らぎに揺らいでしまいます。
神は、このような不義の為政者や統治者、検察官、裁判官などに対して、
彼らが「自分たちは神々だ。いと高き者の子だ」とおごり高ぶっていても、「にもかかわらず、おまえたちは人のように死に、君主たちの一人のように倒れるのだ」(7節)と言われるのです。
8節は、全地をすべ治めておられる主なる神に向かって、「立ち上がって、地をさばいて下さい」(8節)と神の正しいさばきを求める詩人の祈りです。
三、あわれみ深き父なる神
さて3~4節の「弱い者とみなしごのためにさばき、苦しむ者と乏しい者の正しさを認めよ。弱い者と貧しい者を助け出し、悪しき者たちの手から救い出せ」(3~4節)という所をさらに詳しく見ておきたいと思います。3~4節には、「弱い者」「苦しむ者」「乏しい者」「貧しい者」そして「みなしご」が繰り返されています。これらの言葉は、この詩篇82篇を理解する鍵であると言われています。これらの人々は、助けてくれる者も、拠り頼む所もない人々です。詩篇82篇は、この人々の権利を認め、彼らを助け出すことを訴えているのです。そして、主なる神は、このような拠り頼む所のない「弱い者」「苦しむ者」「乏しい者」「貧しい者」「みなしご」に対する配慮とあわれみを示しておられるのです。
イザヤ書58章6節~8節をお開き下さい。リンカーンがアメリカで奴隷解放令を出す30年も前、B.F.バックストン先生の祖父、トーマス・フォイエル・バックストン卿は、ウィリアム・ウイルバーフォースの後を引き継ぎ、1833年に奴隷制度廃止法を英国議会で成立させています。1833年5月14日英国議会下院における演説と大論戦を、このみことばに立ち、ひたすら神に拠り頼んで、勝利し、ついに同年7月22日英国議会下院を通過成立させたのでした。トーマス・フォイエル・バックストン卿の偉業をたたえ、英国のウエストミンスター寺院の祭壇の奥に等身大の像がウイルバーフォースと並んで置かれています。
主イエス・キリストの父なる神は、「あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神」(コリント人への手紙1章3節)と呼ばれています。実に、父なる神は、正しいさばきをなさる義なる神であるとともに、私たちを常にあわれみをもって顧み、御目を留めて、慰め導いてくださる「あわれみ深い父なる神」であってくださるのです。
詩篇10篇14節をご覧ください。「あなたは見ておられました。苦労と苦痛を、じっと見つめておられました。それを御手の中に収めるために。不幸な人は、あなたに身をゆだねます。みなしごは、あなたがお助けになります。」(詩篇10篇14節)とあります。主なる神は、私たちの危機的状況を御手の中に握り、私たちをその中から助け出すために、私たちの労苦と苦痛をじっと見つめていてくださるのです。
詩篇68篇5~6節もお開き下さい。「みなしごの父、やもめのためのさばき人は、聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を歓喜の歌声とともに導き出される。」(詩篇68篇5~6節)とあります。実に、あわれみ深い父なる神は、私たちを歓喜の歌声とともに導き出してくださる方です。
(結論)この義とあわれみに満ちた主なる神に拠り頼み、一切の思い煩いをゆだねて歩んで参りましょう。