礼拝説教「あなたの口を大きく開けよ」2021年8月8日
聖書 詩篇81篇1~16節
(序)この詩篇は、賛美への召集と神の語りかけによって構成されています。
一、賛美への召集
1~5節において、「喜び歌え、…喜び叫べ」と力ある神に向かっての賛美を、喜びをもって力の限りにするようにと、民を招き、召集しています。
高らかに喜ぶ歌声と、にぎやかに打ち鳴らすタンバリンの音、うっとりするような麗しい琴や竪琴の音色、さらに角笛が吹き鳴らして、主なる神に賛美をささげるようにと招いているのです。3節に、「私たちの祭りの日に」とありますが、この賛美は、「仮庵の祭り」において歌われたと言われています。
「仮庵の祭り」とは、イスラエルの三大祭りの一つで、イスラエルがエジプトを出て、荒野を約束の地に向かって旅したことを記念する祭りであり、その旅の中で「律法」が与えられたのでその事も想起する祭りでした。第7の月(チスリの月:今の9~10月)の15日(秋分の日に最も近い満月)から7日間行われた祭りであり、ブドウやイチジクの収穫を感謝する祭りでもありました。木の枝で仮小屋を作り、そこで寝起きをして感謝の供え物をして祝いました。それは、喜びの祭りであり、力の限りに、主を賛美するようにとの招きがここにありました。
二、「まだ知らなかったことば」とは
5節と6節の間に、「私は、まだ知らなかったことばを聞いた」という不思議な一句があります。この「私は、まだ知らなかったことばを聞いた」というのは何を意味しているのでしょうか。
ここで「ことば」と訳されているヘブル語は、通常「ことば」として使われるダバールではなく、元々「くちびる」という意味のシェファトという言葉が用いられています。すなわち、ここで用いられている「ことば」は、口で語られた「ことば」ということです。
書かれた「ことば」というものには確かさがあります。それに対して、語られた「ことば」には、ダイナミックさ、動的という特質があります。聖書のみことばは、何千年にもわたって、読み続けられ、また語り続けられて来ました。教会において語られる説教は、まさに説教者が、古くから語られ続けて来た神のことばである聖書から、その時代に、またその状況にある人々に、その時、そこにおけるメッセージとして主から受け取って、語って来たものです。同じ内容、同じ言葉であっても、その時代、そこに生きる人々に向けて、新しい意味付けと新しインパクトをもって語られるのです。それがここで言われている「まだ知らなかったことばを聞いた」ということです。
三、神の語りかけ
1、救いの御業と民への戒め(6~9節)
6~7節では、主なる神が、イスラエルの民の苦しむ叫びに応えて、力あるみ腕をもって救い出してくださったことが語られています。具体的には、出エジプトの出来事です。7節の「メリバの水のほとりで、あなたを試した」とは、出エジプト記17章に記されたマサあるいはメリバと呼ばれる場所において、飲み水がないために、民がモーセと争い、「主は私たちの内におられるのか」と言って、主を試み、モーセを石で打ち殺そうとした出来事のあった所であり、マサ(「試み」の意)あるいはメリバ(「争い」の意)と呼ばれた所です。出エジプト記17章及び詩篇95篇9節では、「民が主を試みた」という事が記されていますが、ここ81篇7節では、主なる神が、「あなたを試した」とあります。神様が、民の信仰と従順を試されたのです。
8~10節において、主なる神は、イスラエルに十戒を与え、異なる神、異国の神を礼拝しないように命じ、民をエジプトから救い出された主なる神こそ礼拝すべき方であることを命じておられます。
2、あなたの口を大きく開けよ(10節)
そして、10節の後半において、「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」と主は言われます。主なる神のみことばを、ゆるぐことのない信仰と従順をもって受け取ろうとして待ち望み、その口を大きく開けるようにと命じておられるのです。そうするなら、「わたしが、それを満たそう」と主なる神は言われます。
皆さんは、毎日聖書を読んでおられると思います。「この朝も、あなたのみことばをください。あなたのみことばで生かしてください。導いてください。祝福してください」と祈りつつ、聖書を呼んでください。大きく口を開け、期待し、みことばを読み、「これが今朝、私に下さった主のことばである」と受け取っていただきたいと思います。
先日も役員会でお話ししたようなことですが、テサロニケ第1の手紙2章13節をご覧ください。「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間の言葉としてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」(テサロニケ第1の手紙2章13節)
牧師にとって、一番の喜びは、語ったみことばを、会衆の皆さんが真剣に聞き、受け入れ、自分に語られた神のことばとして心に刻んで下さることです。
聖書を通して語られる神様、それを受け取って、この朝、この会衆に、向けて語る説教者、そしてそれを、耳を開き、心を開いて、一つも逃すまいと集中して聞く会衆、その三者が一つとなって、神のみことばがお互いの心の奥底に響くのです。毎回ではないですが、その日の会衆の皆さんの霊的状況から、あらかじめ準備していなかったメッセージが引き出される経験をすることがあります。ですから、互いに顔と顔を合わせ、共に礼拝することの意義があるのです。ですから、是非、毎回の礼拝に集う時、ご自分のたましいが整えられるように祈っていただきたい。また語る者のためにも、みことばをストレートに取り次ぐことができるよう祈っていただきたい。
3、民の不従順と神の嘆きと神のさばき(11~15節)
しかし、残念ながら、イスラエルは、耳を閉じて、主の御声を聞かず、心かたくなにして、従順な心をもって従いませんでした。そこで、主なる神は、彼らを心の頑ななままにまかせられたというのです。13節は、神様の嘆きです。
「ああ、ただ、わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道を歩んでいたら」と言われるのです。民が従順であったなら、敵からの守りと勝利、そして、敵なる者の永遠の刑罰があったのに、と言われるのです。
4、神の満ち溢れる祝福(16節)
民の不信仰と不従順のゆえに、現実の惨めな民の姿です。しかし、16節は、「しかし」と言うのです。民が心から悔い改め、「大きく口を開けて」みことばを求め、信仰と従順をもって、主に立ち返るなら、「最良の小麦と岩から滴る蜜で満たす」と主なる神は言われるのです。
すなわち、主は、私たちを恵もうとして備えて待っておられるのです。
(結論)この神の招きの言葉を、この81篇の詩人は、今まで聞かされてきたことではあるが、今、改めて、苦境の中にいる自分たちへの神の招きの「みことば」として聞いたのです。私たちも、今朝、神の恵みとあわれみに満ちた招きの「みことば」として聞かせて頂こうではありませんか。
「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」