礼拝説教「再び燃え立たせなさい」2021年5月30日
聖書 テモテへの手紙第二1章1~7節
(序)7節は、本年の教会標語としていただいている聖句であり、1月10日に「御霊による宣教と信仰継承」と題して語らせていただきました。
本日、もう一度同じ聖句からお話しするように導かれています。
前回は、7節の「力と愛と慎みとの霊」に的を絞ってお話しいたしましたが、今回は、テキストをもう少し広げて、1~7節から見たいと思います。
一、挨拶
パウロは、ローマの獄より一度開放され、伝道旅行をしていますが、再び捕らえられてローマの獄につながれています。パウロは、この手紙をローマの獄中から書き送っています。教会歴史家エウセビオスによれば、パウロは68年に処刑されています。ですから、この手紙は、67年に書かれたと思われます。よって、この手紙は、パウロの絶筆です。その事を思うと、1節の「神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって」という言葉が、深い意味を持って迫って来ます。
2節の「恵みとあわれみと平安」は、第一の手紙にも同様の表現がありました。通常パウロは、挨拶において、「恵みと平安」を祈っていますが、間に「あわれみ」が挿入されています。「あわれみ」とは、神の優しい恵みということであり、今テモテを福音の奉仕者としてふさわしく整えてくださる神の優しい恵みを覚えつつ、「恵みとあわれみと平安がありますように」と挨拶を送っているのです。
二、祈りと感謝
3節において、パウロは、昼夜、テモテのことを祈りの内に覚え、「先祖以来きよい良心をもって仕えている神」に感謝しています。「先祖以来きよい良心をもって仕えている神」とは、テモテが、幼い時から、聖書に親しみ、祖母ロイスや母ユニケの信仰を継承していることを念頭に覚え、このように言っているのです。
4節、パウロは、「あなたの涙を覚えているので」と言っています。「おくびょうの霊ではなく」と7節にあるように、テモテには、肉体的弱さと臆病で心配性という霊的な弱さがあったようです。ですから、テモテへの第1の手紙5章23節において、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、度々起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい」(第1テモテ5章23節)と勧めています。また、第1コリント16章10~11節には、「テモテがそちらに行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにしてあげてください。彼も私と同じように、主の御業に励んでいるのです。だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安の内に送り出して、私のところへ来させてください」(第1コリント16章10~11節)とあります。
パウロは、テモテの弱さと苦しみ、涙と葛藤を覚えつつ、この手紙を書いているのです。
5節、しかし同時に、パウロは、テモテに引き継がれた「純粋な信仰」を覚えて感謝しています。テモテが良きクリスチャン・ホームの中で、その信仰が単なる観念的なものとしてでなく、全人格的なものとして養育されて来たことが、「宿る」という表現でうかがい知ることが出来ます。
三、愛ゆえの励まし
そのような「純粋な信仰」を頂いているのだから、パウロが按手を与えた時に頂いた、「神の賜物」すなわち聖霊の賜物を再び燃え立たせなさいと、愛のゆえに、勧め、励ましているのです。
1、力の霊
7節、神が与えてくださった「神の賜物」は、「おくびょうの霊ではなく」とあります。テモテの肉体的弱さと臆病で心配性という霊的な弱さを覚えつつ、「神の賜物を再び燃え立たせてください」(6節)と励ましているのです。まず、「力の霊」です。「力」デュナミスとは、爆発的な力です。テモテだけでなく、私たちもまた、弱さを持つ人間です。しかし、御霊は、私たちを励まし、キリスト・イエスにある恵みによって強くしてくださいます。キリストにある立派な兵士として用いてくださいます。
「力の霊」。それは、
①協力する力です。一人では出来ないことも協力して行えば力が与えられます。伝道の書4章12節。
②栄冠を目指し、失望したり、あきらめたりせず、信仰に立って、キリストを証し続ける力です。
③骨の折れる仕事を担う力です。救霊伝道の働きは、農夫のように、忍耐のいる働きです。春蒔けば、自動的に、秋には刈り取るという具合には行きません。どのような作物でも、毎日手入れをし、やっと秋に収穫をすることが出来るのです。自分のようなものでも救われたことを思い、主は救われる方を必ず起こしてくださると信じて伝道に励みましょう。
2、愛の霊
「愛」の冷えている現代において、伝道して行くには、愛が最も大切です。
第1テモテ1章15~16節をご覧ください。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(第1テモテ1章15~16節)とあります。
ここに、罪人に対する主のあわれみが記されています。パウロは、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という福音の中心であり、要である言葉を引用し、自らの体験に照らし合わせて、真実の言葉であり、受け入れるに足る言葉であることを証しするのです。
しかも、自らがその罪人のかしらである事を告白しています。そして、そのような主のあわれみを受けたのは、今後、主イエスを信じて救われ、永遠の命を得ようとしている人々の良い見本としてくださったのだと感謝しています。
私たちが救われたのは、主の恩寵によると共に、私たちを通して他の人々が救いに預かるようになるためです。救われたのは、主に仕え、福音に仕え、教会に仕え、「神の愛」を証するためなのです。
第2コリント5章14節もご覧ください。「、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」とあります。他の訳では「キリストの愛が、私たちに強く迫っているからである」とあります。キリストの愛のお迫りを受け、キリストの愛に囲まれて伝道しましょう。
3、慎みの霊
(結論)私たちは、「力と愛と慎みとの霊」を頂いています。ですから、臆することなく、「神の賜物」すなわち聖霊の賜物を再び燃え立たせて頂き、まだ福音を聞いていない人々、そして次世代を担う若者たちに、福音を力強く証しして参りましょう。