礼拝説教「信仰の戦いを勇敢に戦う」 2021年2月7日
聖書 テモテの手紙第一 1章17~20節
(序)先々週、先週と、パウロの証しの言葉を共に見ました。パウロは、神のあわれみによって救われ、「栄光の福音」をゆだねられた恵みを感謝しています。そして、17節で、これらの感謝を抱きつつ思わず「頌栄」を述べています。さて本日は、書かれている順序とは逆に、19~20節から見ておきたいと思います。
一、信仰の破船に会った人々
20節に「ヒメナオとアレキサンデル」と信仰の破船にあった人々の名が掲げられて警戒がなされています。「ヒメナオ」については、Ⅱテモテ2:17にも言及されており、彼らの言葉が「癌のように広がる」と警告されています。「アレキサンデル」については、Ⅱテモテ4:14にも記されており、パウロも彼のために「ひどく苦しめ」られたことが記されています。ですから、相当に深い問題であったようです。ですから、パウロは、「彼らをサタンに引き渡しました」(20節)と言っています。この場合「サタンに引き渡す」とは、除籍することです。なぜ彼らはこのような信仰の破船に遭ったのでしょうか。それは、19節にあるように、彼らが「正しい良心を捨て」てしまったからでした。
二、信仰の戦いを戦い抜きなさい
パウロは、3~5節でテモテに繰り返し、「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです」と述べて、信仰の戦いを戦い抜くように命じています。
1、信仰と正しい良心
信仰と正しい良心が、ここでも強調されています。これらこそ信仰の戦いを勇敢に戦い抜く力であり、信仰の破船から救われる道です。「正しい良心」については、1月24日の礼拝でも申し上げましたが、ルカの福音書8章15節をご覧ください。「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカの福音書8章15節)とあります。主イエスが語られた4つの種の譬えの箇所です。①道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、鳥に食べてしまわれました。それは、聞いたみことばを悪魔に奪い取られ、救われることのない人々のことです。②岩の上に落ちた種は、生え出ますが、水分がないので枯れてしまいます。それは、喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらく信じていても、試練の時になると身を引いてしまう人のことだというのです。③茨の真ん中に落ちた種は、茨にふさがれて成長できません。それは、世の心づかいや富や快楽によってふさがれて、実を結ぶことの出来ない人のことです。そして、④四番目の種が、良い地に落ちた種で、「正しい良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」人のことだというのです。私たちも、この良い地にまかれた種のように、「正しい良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」人となりましょう。
2、信仰の戦いを勇敢に戦い抜く
「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くように」とパウロは、テモテに命じています。信仰の生涯には、様々な困難がやって来ます。それらの困難を乗り越え、信仰の良き戦いを戦い抜くためには、まず、みことばを真剣に聞き、それをしっかりと守り、忍耐する必要があります。
毎日みことばに養われ、みことばによって信仰が励まされ、信仰強められてはじめて、信仰の良き戦いを戦い抜くことが出来るのです。
三、頌栄 17節
さて、最後に、17節において、パウロは思わず主を賛美し、頌栄をささげています。かつては神の教会を迫害していた罪人のかしらであるパウロを、あわれみ、救いに入れてくださり、栄光の福音をゆだねてくださった、という神のあわれみと恵みを覚え、パウロは、感極まるようにして、手紙の途中であるにかかわらず、頌栄と賛美をささげるのです。
1、「世々の王」
主なる神は、この世と来るべき世における王、永遠から永遠までの王であられます。その王の王なる方が、私をあわれみ、救い、恵みを注いでくださっているという感謝が頌栄となってあふれているのです。
2、「滅びることなく」
主なる神こそ、永遠から永遠にいたるまで存在される方であり、このお方によってのみ、すべてのものがその存在を許されるのです。
3、「目に見えない唯一の神」
人間の肉の目には隠されている唯一まことの神に、誉れと栄えあるようにと賛美しているのです。
私たちはいついかなるときにも、この真の神様に、一切の誉れと栄えを帰さなければなりません。「この頌栄は恵みに対する意識から流れ出ているのである。」とベンゲルは言っています。
パウロは、かつては神の教会を迫害していた罪人のかしらである自分を、あわれみ、救いに入れてくださ神の恵みとあわれみを覚え、この頌栄と賛美をささげているのです。
このパウロの頌栄を読みつつ、モーセが死を前にして、イスラエルを祝福した最後のことばを思わされました。
申命記33章26~27節をご覧ください。新改訳2017で読みます。「エシェルンよ、神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある」とあります。聖書協会共同訳では、この所を「エシュルンの神に並ぶ者はいない。あなたを助けるために天を駆け、威光に満ちて雲に乗られる。いにしえの神は隠れ家、とこしえの腕で下から支えてくださる」と訳しています。
主なる神は、私たちを助けるために、雲に乗り、力と威光をもって、すみやかにお臨みくださるのです。そして、どのような時にも、私たちをかくまってくださる隠れ家であり、確かな強き御手を伸ばして、私たちを支えて下さるのです。
私が峰山教会で牧師をしていた頃のことです。その年は、いつもより大雪の冬でした。当時教会に通っていた一人の方から電話を頂きました。交通事故に遭い今入院しているという事で、早速にお見舞いしました。そのご婦人は、小さな3人のお子さんを持つお母さんで、お家からかなり急な峠を越えて、車で40分ほどかかる町の保育所で働いておられました。聞けば、峠はかなり雪が積もっていたそうです。軽乗用車で峠を越えて少し下ったところで、対向車のトラックがスリップでもしたのでしょうか。いきなりぶつかって来たそうです。思わず「主よ!」と叫んだ、その瞬間、「下には永遠の腕あり」と申命記33章27節のみことばが心に響いたそうです。アッと思う間もなく、7~8メートルはある崖下の田んぼに転落したそうです。そして救急車に運ばれて入院したそうです。その方は言われました。「でも先生、助かりました。神様は、私を支えてくださったんですねー。もしあの時、トラックが運転席にぶつかって来ていたら、この程度のことでは済まなかったと思います。運転席と後ろのドアの間の車体部分にぶつかられたのです。さらに、衝突したところから数センチ前には、交通標識のポールがあったのです。あのポールにぶつかっていても大変でした。しかもあの日の朝は、大雪で、田んぼには雪が相当積もっていたので、車ごと転落した時、クッションになって助かったのです。神様は、御腕をもって守ってくださったのですね」と言って証しをしてくださいました。
ああ、皆さん。主は、今も、永遠に変わらない御腕を、私たちの下に伸ばして下さり、支えてくださっているのです。
(結論)ですから、困難はあるでしょう。大変な時もあるでしょう。しかし、しっかりと信仰と正しい良心を保ち、信仰の戦いを、勇敢に戦い抜いて参りましょう。