礼拝説教「神の恵みとあわれみと平安」2021年1月17日
聖書 テモテの手紙第一 1章1~2節
(序)テモテへの第一は、牧会書簡と言われます。 3節に「マケドニヤに出発するとき」とある所から、パウロがローマでの捕らわれの後(61~63年)解放されて、再び各地を伝道して歩いた時期と思われます(64年~65年)。
一、発信人パウロと受信人テモテ
1、発信人パウロ
パウロは、まず自らを「キリスト・イエスの使徒」として紹介しています。使徒(アポストロス)とは、「全権を委任されて派遣された者」のことです。パウロは、若いテモテの牧師としての権威を認めようとしない人々のいたエペソの教会に対して、主イエスからの使徒職を主張し、その権威の出所を「私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスの命令による」のだと言っているのです。「望みなるキリスト・イエス」という表現は、再臨における完全な救いの成就という望みを、キリスト・イエスにおいた表現です。パウロはここで、「永遠の過去から永遠の未来にいたる救いの望みであるキリスト・イエスの命令によるところの使徒である」と主張しているのです。
2、受信人テモテ
「信仰による真実のわが子」。肉における親子というのではなく、「信仰における子」だというのです。肉親の親子の間にも、「信仰において」を要すると小島伊助先生は言われます。パウロは、テモテのことを、「兄弟」(Ⅱコリント1:1、コロサイ1:1)「私の同労者」(ローマ16:21)「私の愛する忠実な子」(Ⅰコリント4:17)と呼んでいます。子が父に仕えるように、テモテがパウロに仕えているところから「真実のわが子」と呼んだのです(ピリピ2:23)。
二、挨拶のことば
続いて、パウロは、「恵みとあわれみと平安がありますように」と挨拶を記しています。この朝は、この3つの言葉を中心に見て参りたいと思います。
1、恵み
まず、「恵み」とは、何ら人間の側からの功績によることのない、ただ神から人間に向けられた好意であり、受けるに値しないものに対する神の一方的な愛の御業です。新約聖書中、パウロが最も多く「恵み」(77回)ということばを用いています。特に「神の恵み」という表現を好んで用いています。
その代表的なものとして、ローマ人への手紙3章24節をご覧ください。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ人への手紙3章24節)
このみことばは、私たちが罪赦され、義と認められるのは、キリストの贖いによるのであって、ただ神の恵み以外のなにものでもないことを明確に示しています。
さらに、コリント人への第1の手紙15章10節をご覧ください。ここでパウロは、3回も「神の恵み」ということばを用いて、彼の生涯とその働きにおけるすべてが、「神の恵み」であることを証ししています。
私たちも、救われて、今日あるを得ているのは、ただ「神の恵み」であることを覚えて神に感謝するとともに、私たちがその事を、家族や友人、知人に証しすることの出来るのは、ただ「神の恵み」によるのであることを覚え、主に信頼して証人としての責任を果たさせていただきましょう。
2、あわれみ
通常パウロは、挨拶において、「恵みと平安」を祈っていますが、ここでは間に「あわれみ」が挿入されています。「あわれみ」とは、神の優しい恵みです。
パウロは、キリスト・イエスの使徒としてこれまで導き、今テモテが福音の奉仕者としてふさわしく整えられることを願いつつ、「あわれみ」という言葉を記しているのです。
18世紀ドイツの福音的聖書学者ベンゲルは、「『あわれみ』とは、哀れなものに対する優しい恵みを含んでおり、この神の『あわれみ』の経験は、福音の奉仕者としてふさわしく整えるのである」と言っています。(参照13節、16節、Ⅱコリント4:1、Ⅰコリント7:25、ヘブル2:17)。「晩年のパウロの、神のあわれみをつくづく感じる姿が見えるようである」と小島伊助先生は言っておられます。
神の「あわれみ」は、恵みや愛、親切や誠実、真実やいつくしみなど多くの意味を含んだ言葉です。「恵み」という事と明確に区別できないような意味内容の言葉です。しいて言うならば、「神の恵み」は、神との契約関係に基づいており、神からの一方的な好意の表れです。それは、きわめて意志的な「愛」と言えるでしょう。それに対し、「神のあわれみ」とは、母親がその子に対していだく「あわれみ」のように、抑えることの出来ないほどの情け深い情愛から出て来るもので、愛の感情的側面という特質を持っていると言えます。主イエスは、しばしば弱り果てている人々に対して、可愛そうに思い、心動かし、あわれんで、救いの手を伸ばしておられます。パウロは、エペソ人への手紙2章4節で、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださり、その大きな愛のゆえに…」と言い、神のあわれみにより救いが実現したことを述べています。
3、平安
「平安」新約聖書で使われる時には、旧約聖書へブル語のシャロームを背景として用いられています。ですから、ヘブル語のシャロームと同じく、「平和」「平安」とは、欠けのない満ち足りた事であり、内からほとばしるいのちの盈満です。それは、神との関係から始まって、すべての人間関係、経済的な繁栄へと及びます。神との関係、人との関係、霊的なこと、生きがいのこと、経済的なこと、ありとあらゆることにおいて満ちているということです。そのような「平和、平安があるように」と挨拶をしているのです。
いつの時代でも、人々が不安を抱えると、人々の心は平常心を失い、極度に繊細となり、争いや差別を生みだしてしまいます。まさにこのような時こそ、私たちは、主を待ち望みましょう。今集まっての礼拝が制限され、たとえ互いが共に会えなくても、失望しないで頂きたい。今こそ主を待ち望み、主と二人きりになって、主と深く交わるときでです。主は私たち一人ひとりのために、宝のみことばを用意しておられるのです。
哀歌3章25節をお開き下さい。「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。」(哀歌3章25節)
この年、月刊誌『ベラカ』の聖書日課と共に『荒野の泉』第2編を読んでいます。その中にこんな一文がありました。「待ち望むことを学び、判断できない時はあわてず、霧が晴れるのを待ちなさい。半開きの戸を無理に押し開けるな。閉じられていることも神のみこころなのかも知れません。どんな圧迫にも耐え抜くなら、神が自由に働かれる無限のチャンスをささげることになります。」(『荒野の泉』第2編より)
(結論)コロナウイルスは、今なお猛威を振るっています。しかし、神様の「恵みとあわれみと平安」が、私たち一人ひとりの上にあるようにと祈り励みつつ前進いたしましょう。