礼拝説教「父なる神からの恵みと平安」2022年2月20日
聖書 コロサイ人への手紙1章1~2節
(序)この年の教団において掲げられているみことばの一つは、コロサイ人への手紙3章15節にある「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい」です。よって本日より、コロサイ人への手紙をともに読んでまいります。コロサイ書には、「教会の頭なるキリストの卓越性」が記されています。1章1~2節は、この手紙の挨拶部分です。
一、手紙の発信人と受取人
1.発信人
この手紙の発信人は、ローマの獄中にいるパウロとテモテです。パウロの弟子のテモテが、パウロの言う言葉を聞き取り、筆記してこの手紙を書いたのです。「パウロから」としても良いところを、わざわざ「キリスト・イエスの使徒パウロ」と言っています。「使徒」とは、「遣わされた者」という意味で、神の権威のもとに遣わされて福音を宣べ伝えている者であるという意味の名称です。
しかも、さらに「神のみこころによる」と付け加えられています。当時、コロサイの教会は、重要な点から目をそらさせ、間違った点あるいは些細な部分に異常な執着を抱かせる異端の危機にさらされていました。そのことを聞いたパウロは、自分が伝道してできた教会ではないけれども、この手紙を真剣に受け止めてほしいという思いからそのように書いているのです。
テモテがこの手紙を代筆したので、発信人として、パウロのみではなく、テモテの名も書き添えられ、しかも、パウロによって導かれた若いテモテのことを「兄弟テモテ」と記して、若いテモテに対しての兄弟愛という暖かい思いをもって記されています。
2.受取人
宛先は、「コロサイにいる聖徒たち」です。コロサイは、小アジア・フルギア地方のかつては栄えたけれどもパウロの時代には衰退した小さな町です。コロサイ教会は、パウロによって伝道された教会ではなく、パウロによって導かれたエパフラスの働きによって出来た教会です。パウロは、このコロサイの教会が、異端の危機にさらされているとの報告を聞き、AD60年ごろ、ローマの獄中から書き送ったのです。「聖徒」とは、特別にきよめられた人というのではなく、救いに与ったクリスチャンのすべてに対してそう呼んでいるのです。しかもそれに、「キリストにある忠実な兄弟たち」との言葉が加えられています。「キリストにある」とは、単に「キリストを信じている」という程度のことではなく、その人の目的も行動も希望もすべてがキリストの中にあるということです。言い換えるなら、その存在がキリストの内に深く根差しているということです。さらに「忠実な」という言葉が加えられています。それは、どんなに困難な中を通されようとも信仰を失うことなく、しっかりと主に忠実であるということを意味しています。「兄弟」とは、血縁関係を越えた霊的意味で神の家族の一員とされたお互いであるとの意識から来る「兄弟姉妹」ということです。私たちも、このような意味で、「キリストにある忠実な兄弟」としての自覚に生きる者でありたいと思います。
二、父なる神からの恵みと平安
2節の後半「私たちの父なる神から恵みと平安があなたがたにありますように」とあります。一般的に、「恵み」はギリシャ的挨拶、「平安」はへブル的挨拶と言われますが、聖書でこれらのことばが用いられる場合、さらに深い意味がその背後にあります。
1.「恵み」
「恵み」カリスとは、「それを受けるに値しない者に対して与えられる神様の好意であり、私たちがありのままで受け入れてもらえる」ということです。主イエス・キリストの贖いを通して与えられる神の救いのご計画そのものが、ただ信じることによって与えられているということが、「神の恵み」なのです。そのことを明確に言い表しているのが、エペソ人への手紙2章4~8節です。さらに、第Ⅱコリント12章に「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの内に完全に現れるからである」とあるように、「神の恵み」のゆえに、主は、弱さのなかにある私たちを強めて下さるのです。
2.「平安」
「平安」とは、ギリシャ語ではエイレーネと言いますが、ヘブル語の「平和」シャロームという言葉の意味を背景としています。「平和」シャロームとは、欠けのない満ち足りた事です。神との関係が回復された者の内からほとばしるいのちの盈満です。神との関係、人との関係、霊的なこと、生きがいのこと、経済的なこと、ありとあらゆることにおいて満ちているということであり、ほとばしり出るいのちの盈満です。主は、欠けのない確かな救いを与えて下さいます。すべての祝福の基礎は、神との平和です(ローマ5章1節)。神との関係が回復される時、他の全てのものは、祝福され、満たされるのです。
「私たちの父なる神から恵みと平安があなたがたにありますように」とあるごとく、この「恵み」と「平安」は、父なる神から、イエス・キリストを通して与えれれるのです。
(結論)私たも互いに、父なる神からの「恵みと平安」を祈る者となりましょう。