礼拝説教「アコルの谷を望みの門に」2022年1月30日
聖書 ヨシュア記7章1~26節 ホセア書2章15節
(序)6章には、神様より与えられた作戦で、不思議にもエリコの堅固な町に勝利を得ることが出来た事が記されています。
しかし、どうしたのでしょう。7章は、小さな町アイに全く打ち負かされてしまいます。その原因は3つありました。それは、①祈らなかった、②全力を尽くさなかった、③罪があったということです。特に罪の問題は致命的でした。
一、罪の結果の重大性
①悪魔の常套手段
悪魔の人間を堕落させる常套手段は、いつも決まっています。罪の結果の過小評価を与えると言うことです。悪魔は、いつも、「これくらい。…一人くらい。…一度くらい。いいじぁないか」と私たちの心に囁きかけて来ます。私たちは、そのような誘惑に対して、何時でも「ノー」と言える者でありたいと思います。ヤコブの手紙4章7節に「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」とあります。これがいつも順序であり、秘訣です。失敗は、いつもみことばにしたがわない、神様に従わないところから来ているのです。
②罪の及ぼす恐ろしい結果
罪の及ぼす結果は恐ろしいものです。一人の罪は、全体に大きな影響を及ぼすのです。
アカン一人が犯した罪でしたが、イスラエル全体が苦しみました。私たちが罪を犯しますとき、その結果は、一人個人に止まらないということです。
かつて福知山であった事件ですが、一人の男がクレーン車を運転して踏切を渡ろうとしました。ところがその踏切は狭いうえに高さ制限がありました。その男は、「でもまあなんとか行けるだろう」と渡り掛けたところ、クレーンの先が架線にかかり、通りかかった電車と衝突し、多くの人が怪我をするという大事故になってしまいました。一人のいい加減さ、一人の犯した罪が多くの人をとんでもない悲劇に巻き込むのです。
③罪は滅びを刈り取る
罪は滅びを刈り取るのです。部族ごと、氏族ごと家族ごとにくじが引かれ、ついにくじはアカンに当たりました。アカンは「私がやりました」と白状し、隠していた金の延べ棒などが彼の天幕の地面から発見されました。そして、「アコルの谷」という所で、家族共々石で打ち殺されてしまいます。罪は、それほどに重大な恐ろしいものなのです。神は一切をご存じです。やがて自らの行為の言い開きを神のみ前にしなければならない時が来るのです。
ローマ人への手紙5章12節をご覧ください。「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべてに人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に…」(ローマ5:12)とあるとおりです。しかし、同じローマ5章19~21節もご覧ください。「ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の人の従順によって多くの人が義人とされるのです。…罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くのです」(ローマ5章19~21節)とあるとおり、主イエス・キリストによる救いの道が開かれているのです。
二、アコルの谷を望みの門とするとの約束
ホセア書2章15~23節をご覧ください。「わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする」(ホセア書2章15節)とあります。この箇所は、神様に背を向け、神様を忘れ、偶像礼拝の罪を犯しているイスラエルの民に対し、罪の道を離れ、まことの神様へ帰るようにと呼びかけているみことばです。神様は、民にやさしく語り、恐ろしい刑罰の場所であったアコルの谷を、望みの門とし、罪を赦しきよめ、真実をもって契約を結び、恵みとあわれみを注ぎ、全き回復と繁栄を約束しておられる箇所です。
罪赦されて回復へ向かう道は、①まず悔い改めることです。私たちが真剣に自らの罪を悔い改めるとき、その涙の向こうに、神様の慈愛に満ちたお顔を仰ぐことが出来るのです。②信仰を持って従うことです。信仰を持って従ったなら、神様は、そこに回復への道を備えておられます。神様は、回復と勝利への道筋をちゃんと持っておられるのです。そのような意味で、神様は、③「アコルの谷を、望みの門とする」とおっしゃり救いの門を開いてくださるのです。
第Ⅱコリント5章17~6章2節をご覧ください。神様は、私たちに対して「和解の福音」を備え、今を「恵みの時、救いの日」としてくださるのです。
三、私たちの望みの門
私たちの望みの門は、主イエス・キリスト様です。
ヨハネ10章9節をご覧ください。主は、「わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます」とあります。
ペテロ第Ⅰの手紙1章8節をもご覧ください。3節には、「生ける望み」とありますが、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています」(第Ⅰペテロ1章8節)とあります。これが「生ける望み」の内容です。主イエス様こそ、「私たちの望みの門」であり、「私たちの望み」であるお方です。
最後に、ヨハネの黙示録3章7節を御覧下さい。
「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じれば、だれも開くことがない」とあります。主イエス様こそ、私たちのために救いの門を開く権威をお持ちの方です。主が開くとおっしゃる以上、開かれるのです。しかし、主が、一か所開けられないところがあります。それは、ヨハネの黙示録3章20節です。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とあります。
ウイリアム・ホウルマン・ハントの「世の光」と題する絵がロンドンにあります。それは、灯りを片手にドアをしきりにたたいておられるキリストの姿を描いた絵です。ドアは一度も開けられたことがないかのように、つたで覆われています。そして、刻一刻と時が迫っているかのように、闇があたりを覆い、リンゴが数個落ちて腐っている様子が背景に描かれています。フッと見ると、ドアには取っ手がありません。それはまるで内側からだけ開けることが出来るということを暗示しているようです。画家は、ヨハネの黙示録3章の御言葉を題材にして書いたのです。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。
だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、
わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、
彼もわたしとともに食事をする。」 (ヨハネの黙示録3章20節)
主は、私たちの心の戸をたたき続けておられます。主は決して私たちの心の戸をこじ開けて入られる方ではありません。私たちが心の戸を開くまでたたき続けておられます。平安と喜びを与えようとして、たたき続けておられるのです。 夜の闇にあなたの心が覆われていたとしても、心の戸を主に向って開くだけで、主イエス様は、あなたの心に平安と喜びと希望を満たしてくださいます。
(結論)アコルの谷を望みの門として下さる神様の恵みを覚えましょう。私たちの望みの門であり、望みそのものであってくださる主イエス様が、今、私たちの心の戸を叩いていてくださいます。「主よ。お入りください。あなたを信じます」と信仰の応答をいたしましょう。