礼拝説教「恵みとまこと、義と平和」2021年9月5日
聖書 詩篇85篇1~13節
(序)本日は、詩篇85篇よりお話し致します。前篇同様、コラ人(コラの子)による詩篇です。この詩の背景ですが、ペルシャのキュロス(クロス)王が紀元前539年10月10日バビロンを攻略し、翌紀元前538年ユダヤ人はバビロン捕囚から解放され、祖国に帰還を許され、神殿再建の工事を開始します。ところが妨害が入り、工事は中断されてしまいました。祖国に帰れた喜びと、廃墟と化した現状に対する失望と襲って来る将来についての不安に、彼らの信仰が試され、弱っているような状況でした。そのような中で、本篇が歌われたと思われます。
一、神の恵みに対する感謝の歌 1~3節
1~3節において、詩人は、まず神が民の罪を赦し、激しい怒りを取り去り、恵みによって国を回復してくださったことを感謝しています。1節に「ヤコブを元どおりにされます」とありますが、ヘブル語で、それはバビロン捕囚からの帰還を意味している表現として使われていますので、新共同訳では、「ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました」と訳しています。1~3節に、「元どおりにされます。…咎を担い…すべての罪をおおってくださいます。…激しい怒りをすべて収め、…身を引かれます」とありますが、前の訳ですと「繁栄を元どおりにされました。…咎を赦し…すべての罪をおおわれました。激しい怒りをことごとく取り去り…御怒りを押しとどめられました」と過去形で訳されていました。ヘブル語聖書ですと、過去を意味する完了形で書かれています。ですから、既に与えられた神の恵みを感謝していると受け取ることができます。それと共に、ヘブル語の完了形は、過去のことだけでなく「神様は〰してくださる」と確信に満ちた預言的な意味で完了形を用いることがあります。ですから、1~3節は、過去に神様が示してくださった恵みを感謝していると同時に、その神様は、必ず元どおりにされます。…担い…おおってくださいます」と訳しているのです。神様の恵みの御業、回復の御業、リバイバルの御業には、2~3節にあるように、罪の赦しと和解の御業が伴っているのです。「咎と罪」、すなわち「曲がった悪の行為としての咎」と「道を外れた、的外れという罪」が二重に記され、その「咎と罪」にたいする赦しも、「担う」「おおう」と二重に記されています。そしてまた、和解の御業についても、「収め」「身を引かれる」と二重に記されています。そのように神様の罪の赦しの福音は、至れり尽くせりの徹底したものなのです。詩人は、その信仰に立って、感謝し賛美しているのです。
二、「帰って来て、生かしてください」と回復を求める祈り 4~7節
詩篇85篇には、「帰る」という意味のヘブル語シューブという言葉の派生語が様々に訳されて用いられています。例えば「元どおりにされます」(1節)「身を引かれます」(3節)「帰って来てください」(4節)「帰って来て」(6節)これらはみな、「帰る」という意味のヘブル語シューブの派生語です。私たちの罪が除かれ、神が帰って来てくださって初めて、神の民の回復があるのです。ですから、詩人は、何度も、「帰って来てください」と叫び、「主よ。お示しください。あなたの恵みを。与えてください。あなたの救いを」(7節)と願うのです。神様に帰って来て頂くためには、まず、私たちが悔い改め、神様に立ち返り、神様を心から求める必要があるのです。そして後、「主よ。お示しください。あなたの恵みを。与えてください。あなたの救いを」と祈ることができるのです。
三、恵みとまこと、義と平和に満ちた全き回復の約束 8~13節
そうして、「聞かせてください」と神様のみことばに心を開く時、主は語ってくださいます。主を求める敬虔な人に、主は、平和を告げ、御救いを示し、栄光を現わして下さいます。特に10~13節に、恵みとまこと、そして義と平和に満ちた全き回復の約束が与えられています。
1..恵みとまこと
「恵み」ヘセドとは、神様の一方的な愛の御業です。詩篇には数多くこの「恵み」ヘセドが用いられています。特に詩篇136篇には、26回も「主の恵みはとこしえまで」と繰り返されています。
「まこと」エメトとは、「真実」なことです。主なる神は変わり給うことのない真実なるお方です。この「恵みとまこと」は、しばしば共に対になって用いられています。ヨハネの福音書1章14節には、主イエス様について、「恵みとまことに満ちておられた」と証しされています。
2.義と平和
「義」ツェデクまたはツェダカーとは、「正しい」という意味ですが、「恵み」「救い」「勝利」と言った意味も含んでいます。神様は、義なる正しい方であり、主イエス様の贖いのゆえに私たちを義と認めてくださったのです。マタイの福音書6章33節には、「まず神の国と神の義を求めなさい」とあります。私たちは、「神の国と神の義」を真剣に求めましょう。「神の国と神の義」にこそ、私たちの祝福の根源があるのです。
「平和」シャロームとは、単に戦争がないことではありません。「平和」シャロームとは、欠けのない満ち足りた事です。神との関係が回復された者の内からほとばし出るいのちの盈満です。神との関係、人との関係、霊的なこと、生きがいのこと、経済的なこと、「無事か」「安否を尋ね」「うまくいっているか」「平安」「健康」「繁栄」「親しい」「和解」など、ありとあらゆることにおいて用いられます。主は、欠けのない確かな「平和」を与えて下さるのです。すべての祝福の基礎は、神との平和です(ローマ5章1節)。神との関係が回復される時、他の全てのものは、祝福され、満たされ、あふれ出るのです。
3.「恵みとまこと」「義と平和」の一体性とその働き
10節には、「恵みとまことは、ともに会い、義と平和は口づけします」とあります。すなわち、「恵み」と「まこと」「義」と「平和」というものの一体性を歌っているのです。これらの四つは、神様のご本質に関わるところのものであり、詩人は、これら「恵み」と「まこと」「義」と「平和」の広さ、長さ、高さ、深さを思い巡らせています。
11節は、「まことは地から生え出で、義は天から見下ろしています」(11節)とありますが、「まこと」と「義」を取り上げ、擬人化して語っています。神の救いの義に対する応答としての「まこと」すなわち「真実な信仰」が地から生え出ており、それを天から、「義」すなわち「義なる神が見下ろしておられる」というのです。
その結果、主なる神が、豊かな地の産物を与えてくださるというのです。
13節の「義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします」とは、それらのことの結論としての一句です。少しわかりにくいのが、後半の「主の足跡を道とします」という句です。
主なる神が、神の民を救うために臨まれる前に、義がその前を先駆者として進み、主の救いの到来を告げ、道備えをするというのです。
この所をロザーハムは、Righteousness before him shall march along, That he may make, into a way, the steps of its feet.
「義は御前を行進し、道に一歩一歩、主の足跡をしるします」と訳しています。すなわち、どのようなことかというと、義が御前に先立って進み、「ここにも主の足跡があるよ。その御業があるよ。ここにも主が臨んで歩まれ、不思議を行われた跡があるよ」と告げて、主の進まれる道を備えているのです。
(結論)恵みとまこと、そして義と平和に満ちた全き回復の約束に与るために、私たちは、8節にあるように、「聞かせてください。主である神の仰せを」とあるように、「神様。あなたのみことばを信じて従いますから、あなたのみことばを聞かせてください」と申し上げましょう。