礼拝説教「私の福音」2021年6月20日
聖書 テモテへの手紙 第二 2章8~13節
(序)本日もテモテへの手紙 第二 からお話し致します。
一、私の福音 8節
ここで、パウロは、「イエス・キリストのことを心に留めておきなさい。私の福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です」(8節)と言っています。
8節の「イエス・キリストのことを心に留めていなさい。」のところは、「イエス・キリストをいつも思っていなさい」(口語訳)”Remember Jesus Christ”(欣定訳) “Keep in mind Jesus Christ”(ロザーハム訳)とそれぞれ訳されています。いつも「イエス・キリストのことを心に留める」ということは、この一段の鍵になる言葉であり、クリスチャンにとっての重要な事柄です。
では、どのようなキリストを心に留めるようにというのかと言えば、「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリスト」(8節)ということです。約束されていたように人となって生まれ、十字架にかかり、死んでよみがえられたイエス・キリスト、すなわち、受肉降誕と十字架と復活のキリストです。このお方こそが、「私の福音だ」とパウロは力を込めて語っているのです。
この福音から、すなわち。このお方から、片時も目をはなさないように、「いつも思っていなさい」と言うのです。
二、福音のために 9~10節
そして、「この福音のために、私は苦しみを受け、鎖につながれている」(9節)と言い、「しかし、神のことばはつながれてはいません」(9節)と証ししています。
小島伊助先生は、「パウロの絶筆はいよいよさえる。内容はますます濃縮されている。死を眼前にして、生ける主は現実である。」と言っておられます。パウロはたとえ鎖につながれても、神のみことば、神のみ業は止まることなく、常に前進しすると言うのです。
ほかのところでパウロは、「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしのです」(ピリピ人への手紙1章12節)と言っています。
ですから、パウロは、選ばれた人たち、すなわち神によって選ばれているがまだキリストを信じるには至っていない人々のために、その人々がキリスト・イエスにある救いととこしえの栄光を受けるようになることを祈り願って、「すべてのことを耐え忍ぶ」(10節)と言うのです。
この「耐え忍ぶ」ということは、困難な状況であるから仕方なく耐え忍ぶというような消極的なことではありません。クリスチャンにとって「耐え忍ぶ」ことは、神の救いのご計画の中に、不可欠に組み入れられているということであり、キリストの御苦しみこそが全人類の救いの完成となり、聖徒たちの苦しみを通して福音は全ての人に、そして私にまでも届けられたということです。
ですから、福音のために苦しむことは、神の御心であり、神の喜ばれることです。また、その苦しみを通して、私たちはきよめられ、栄光の冠を受ける者とされるのです。
ペテロも、クリスチャンの苦難について「そうゆうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いましばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします」(第1ペテロ1章6~7節)と言っています。
パウロは、人々が救われ、とこしえの栄光を受けるようになることを祈り願って、あらゆる労苦を耐え忍んでいるのです。
三、真実なことば 11~13節
パウロは、福音のために「耐え忍ぶ」と言いましたが、そのことを歌っている讃美歌を11~13節に紹介しています。
これは「勝利の讃美歌、またはバプテスマの時の讃美歌ではないか」と言われています。
①讃美歌の第1節は「キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる」(11節)です。
これを「勝利の讃美歌」と捉えるなら、主のみ前に、どのような苦しみも、死でさえも滅ぼされ、永遠のいのちに生かされることを歌ったものです。
他方「バプテスマの時の讃美歌」と捉えるなら、ローマ人への手紙6章3~5節にあるように、霊的な意味で、バプテスマに与る時に、「キリストと共に死に、キリストと共に生きること」を意味しています。
②讃美歌の第2節は、「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる」(12節)です。
その生涯において苦難が続き「耐え忍ぶ」ことの連続であるとしても、天の御国において「ともに王となる」のです。すなわち相続を受けるという栄光の望みがあるということを歌っているのです。
③讃美歌の第3節は、「キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる」(12節)です。
主イエスは、「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられる父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも、天におられる父の前で、その人を知らないと言います」(マタイ10:32~33)と言っておられます。
どんなことがあっても、主を決して否むことの無いようにしましょう。また、選ばれ救われたた人々が主を否むことの無いように祈りましょう。
④讃美歌の第4節は、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」(13節)です。
私たちの神は「真実の神」「信頼すべき神」なるお方です。常に、主のご真実に目を留めましょう。ロザーハムは、“the faithful God”と訳しています。
新約聖書に記された「真実な神」を4箇所見ておきましょう。
①選びにおいて真実な方です。第1コリント1:9、
②試練から脱出させて下さることにいおいて真実な方です。第1コリント10:13、
③私たちの霊と心とからだを完全に聖なるものとして下さることにおいて真実な方です。第1テサロニケ5:24、
④罪を赦しきよめることにおいて真実な方です。第1ヨハネ1:9。
(結論)パウロが「私の福音」というように、私たちも、イエス・キリストのことをしっかりと心に留め、生涯を通じて、これが「私の福音」だと証しする者となりましょう。