礼拝説教「敬虔の鍛錬」2021年4月18日
聖書 テモテへの手紙第一 4章1~16節
(序)本日もテモテへの手紙からお話しします。
一、偽りの教えを警戒しなさい
1~5節には、偽りの教えを警戒するようにとあります。
パウロの時代にも、偽りの教えによって、人々を惑わす者が出現しましたが、後の時代になるとますます偽教師が現れ人々を惑わすようになると警戒しています。それらの教えは、惑わす霊と悪霊の教えであり、人々の心を奪い、信仰から引き離すというのです。彼らは嘘つきの偽善者であり、彼らの良心は麻痺していると警告を与えています。
当時、グノーシス主義という異端がありました。彼らは、霊肉二元論に立っており、霊は善であるが、肉体や物質的なものは悪と考え、結婚を禁じ、特定の食物を食べることを禁じていました。これは聖書的ではありません。4節には、「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません」とあります。
二、敬虔のために鍛錬しなさい 6~10節
6節の「教える」と訳された言葉は「下に置く」の意味があり、丁度泥道に踏み石を置くように、安全に行く道を示すことです。信仰の言葉と良い教えの言葉によって人々は養われ、間違いのない道を安全に進むことができるのです。
7節で、パウロは、俗悪で愚にもつかない空想話を避け、敬虔を鍛錬しなさいと勧めています。「敬虔」とは、「神の臨在の不断の現実感である」とドイツの敬虔派の聖書学者ベンゲルは言っています。8節は、当時の教会の中で言い習わされていた言葉であり、9節の「この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです」という言葉がそれを裏付けています。パウロは、8節で、肉体の鍛錬になぞらえて、敬虔のために自分を鍛錬するようにと勧めています。アスリートは、日々に肉体の鍛錬を怠りません。それによって成長し、あらゆる競技に良い成績を収め、人々の賞賛を受けるのです。そのごとく、敬虔においても、日々に自分を鍛錬する必要があります。「鍛錬する」とは、当時の競技のようすから使われるようになった言葉であり、競技する者は、まとわりつくものを脱ぎ捨て、身軽になって、一心に一つの競技に集中して練習するのです。
中学の同窓生に中日でピッチャーだった人物がいますが、彼が現役時代、「休みの日も毎日6時前に起きて、1時間以上走りこむ。そうしなければ体がなまって使い物にならない」と言っていた。「敬虔の鍛錬」についても、同じことが言えるのではないでしょうか。神の臨在をいつも覚えるためには、日々に、みことばを読み、祈り、神と交わる必要があります。それによって、「神の臨在の不断の現実感」を養うことができるのです。聖書の中のなかなか理解するのが難しいいところも、日々に生活の中で学ぶことによって経験を積み、物事を見分ける感覚が訓練されるのです。
8節で、パウロは、肉体の鍛錬と比較して、敬虔の鍛錬がどれほど有益であるかを述べています。肉体の鍛錬は、いくらかは有益であるが、敬虔の鍛錬は、今のいのちと未来のいのちが約束されており、すべてにおいて有益だと勧めています。
三、模範となり、専念し、ひたすら励みなさい 11~16節
1、模範となり
12節で、パウロは、テモテに、ことばや態度、生活のあらゆる面において、模範になるようにと勧めています。特に、「愛」と「信仰」と「純潔」を勧めています。
2、専念し
13節で、パウロは、テモテに、①聖書の朗読と②勧めと③教えとに専念するように言っています。これら3つのことは、公同の礼拝における大切な要素でした。①聖書を朗読することは、神のことばを宣言し告げることですから、大変重要な務めです。与えられているテキストをあらかじめ目を通して備え、間違えることなく、正しく朗読する必要があります。②勧めとは、朗読された聖書の箇所を正しく解説することです。
③教えとは、キリスト教の正しい教理を教え、教会生活を指導することです。
3、ひたすら励みなさい
パウロは、テモテに、「心を砕き、…しっかりやりなさい」と励ましています。
テモテへの勧めが、この16節にまとめられています。すなわち、自分自身と教えに気をつけるということです。きよき信仰生活と正しい教えをどのようなことがあろうと継続し続けることは、豊かな祝福の秘訣です。
(結論)愛と信仰と純潔において模範となり、聖書の朗読と勧めと教えという教会が教会として果たすべき務めに専念し、クリスチャンに与えられた使命にひたすら励みましょう。