礼拝説教「すべての人の贖いの代価」2021年2月28日
聖書 テモテへの手紙第一 2章5~7節
(序)本日もテモテへの第1の手紙からお話したいと思います。
一、信仰と真理を伝える宣伝者、使徒、教師
まず7節をご覧ください。信仰と真理を異邦人に伝え、教えるところの宣伝者、使徒、教師として、父なる神とキリストとから遣わされているのが、パウロだというのです。
「宣伝者」を欽定訳ではa preacherと訳しています。みことばの説教者です。神の救いの真理を語るところの伝道者です。「使徒」とは、全権を委ねられて遣わされている者のことです。「教師」とは、教え導く人であり、主イエスが命じられたすべてのことを教え、キリストの弟子とする働き人です(マタイ28:18~20)。「信仰」とは、人々に神の救いの計画の実現をもたらすところの信仰です。「真理」とは、イエス・キリストによる救いの真理です。このような救いの信仰と真理を証し、宣べ伝え、教え導くために、パウロは、またテモテは、そしてお互いは遣わされているのです。
二、「信仰と真理」の中心的内容
そこで、5~6節に述べられている「信仰と真理」の内容そのものに目を留めたいと思います。
1、唯一の神
まず5節はじめに、「神は唯一です」とあります。「信仰と真理」の中心的内容の第1は、天地万物を造られた真の神様は、唯一のお方だ、ということです。日本人の宗教意識を示す言葉として、「鰯の頭も信心から」とか「分け登る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」と言われ、「何を信じてもよい、信心が大切だ」と言うのですが、ちょっと待ってください。頂上までは行けても、天にまでは行けないでしょうと申し上げたい。「信心」も大切ですが、何を信じるのかという信仰の対象こそ最も大切なものです。
2、神と人との仲介者、
5節の後半に「神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」とあります。すなわち「信仰と真理」の中心的内容の第2は、イエス・キリストが、神であるのに人となってくださったということです。「仲介者」あるいは「仲保者」とは、双方の間に立って執り成しをする者のことです。旧約においては、王や祭司や預言者がその任を負っていました。特に旧約聖書で、特異な存在である「仲介者」は、イザヤ書53章の「苦難のしもべ」です。この「苦難のしもべ」は、私たちのために、私たちに代わって苦難を受けられる主イエスに対する預言でした。
「仲介者」は、一方にだけ属するものではなく、双方に属する必要がありました。ですから私たちと神と間の「仲介者」であるキリストは、まことの神であると同時に真の人でした。その事については、へブル人への手紙1章3節、及びへブル人への手紙2章14~18節、4章14~16節をご覧ください。主イエスは、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」であると共に、私たちと同じような血と肉を持ち、肉体的な弱さをお持ちでした。それゆえに永遠の大祭司、唯一の仲介者として、私たちのために執り成しをし、折にかなった助けを行ってくださるのです。ですから、神と人との唯一の仲介者は、真の神であり、真の人となってくださったイエス・キリストただお一人なのです。
3、贖いの代価としてのキリスト
「信仰と真理」の中心的内容の第3は、主イエス・キリストが、すべての人が救われるために「贖いの代価」として十字架にかかられた、ということです。「贖い」とは、代価を払って買い戻すという意味です。まことの神の背き、罪に罪を重ね、滅びしかなかった私たちに代わって、主イエス・キリストが十字架の上で代価を払ってくださった。ですから私たちは、滅びから永遠のいのちへと贖い出されたのです。この十字架の上で成就された「キリストの贖い」を通してのみすべての人は救われるのです。
ペテロ第1の手紙1章18~19節をご覧ください。ここにも、十字架の上で流された、傷も汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によって、私たちが贖われたことが述べられています。
(結論)福音の中心、「信仰と真理」の中心である、神は唯一の方であり、神であるのに人となってくださった唯一の「仲介者」キリストの執り成し、そして十字架の上で「贖いの代価」となられたキリストを信じ、また、証しし、宣べ伝える者となりましょう。