説教題「主の日を待ち望みながら生きる者として」
聖書 Ⅰテサロニケ5章1~24節
わたしたちはクリスマスに主のご降誕を喜びますが、その意味するところは主の到来によって世界が変わったということでした。世界に罪のゆるしが与えられ、キリストにある者はだれであれ神の家族となりました。
パウロはそのことを伝えるために国と人種の垣根を越えて伝道旅行をしました。その一つの実がテサロニケの教会の人々でした。
- 主の日は来ます。
パウロはテサロニケを後にしましたが、教会の人々のために手紙を書きました。その手紙の中でパウロは主の日に触れます。それはクリスチャンの生活の基盤となる事柄でした。主の日は、暗闇の中にいる者にとっては盗人が夜来るような予期せぬ時である。しかしキリストにあって罪ゆるされた者にとってはそうではありません。身を慎んでその日を待ち望む者として迎えることができます。信仰者はその日のために互いに励まし合い、高めあわなければなりません。そこに教会の必要性の一つがあります。
- 神が望むこと
神は聖徒が互いに励まし合いながら主の日に備えることを望んでおられます。そのことは具体的な生き方を通して身につけることでした。
教会を指導する立場の人に尊敬を払い、また互いに寛容であるように。また悪に対して悪を返さないように求められました。
そして黄金律と言われる勧めがいつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝することでした。これら喜ぶこと、祈ること、感謝することは意思が必要です。それは聖徒が有する大切な美徳です。
また御霊を消してはならない、預言を軽んじてはならないともあります。神からいただいた聖霊の火を失ってはなりません。そのためにも自己を吟味しあらゆる悪から遠ざかる必要があります。わたしたちはこのようにして主の日を待ち望む者として歩みたいのです。
